今日から7月、今年も半分が終ってしまいました。先年亡くなった国語学者の大野晋先生は、「時」の語源は「とける」であると仰っていましたが、ふむふむと思います。さて、前回の続きの「自句自解」です。
妻逝きていつしか雁の渡る頃
去年の8月31日に妻が亡くなって、もう一年が経とうとしています。9月、10月といろいろと忙しく落ち着かない日々が続きました。仮住まい先から戻る前に、我が家のちょっとしたリフォームもして、娘と二人で新しい生活を始める準備をしたりしました。日常のあれこれに忙殺され、妻がやっていてくれたことの大きさに改めて気づかされたりしました。
そんなあれこれが少し落ち着いてみると、秋も深まっていたわけです。一句では「雁渡る」が季語になります。秋の終り頃、北国から雁がやって来る季節です。この辺りではあまり見ることはありませんが、もの寂しい気分が伝わって来る言葉です。妻に最期の日が近づいてくるころから、彼女を詠んだ句を随分たくさん作りました。
<妻と見る文月六日の月夜かな><病む人の見遣るは遠き秋の雲><晴るる日は小鳥となりてもどり来よ><面影に傘さしかくる時雨かな><身に入(し)むや妻の櫛ある小抽斗(こひきだし)>等などなど。
食べ終へしドーナツの穴憂国忌
ドーナツという食べ物の面白さは、誰もが思う通り、あの「穴」にあると思います。「穴」という言葉にはいくつかの定義がありますが、「ドーナツの穴」は辞書にある解釈の中では「あるはずの物や人間が欠けたために生じた空白状態」というものが一番近いような気もしますが、これも「ドーナツの穴」を説明しきっていないように思うのです。
「ドーナツの穴」は「あるはずの物(この場合はドーナツの生地)が欠けているわけではないでしょう。絞り袋から輪の形になるようにひねり出した生地を油で揚げたものがこのお菓子ですから、最初から空白状態は想定されているわけです。「最初から何もない空白状態」、それが「ドーナツの穴」。
ちょっと理屈っぽいのですが、、ドーナツを食べるとき私たちはその甘い生地を楽しむことになります。このお菓子が円形の生地とその中にある穴で成り立っているとすると、果たして私たちはその穴も一緒に食べたことになるのでしょうか?
しかし、そもそもこの穴は欠落であり不在です。「ドーナツの穴」も一緒に食べてしまったのだとすると、私たちは無いものを食べたことになるのでは……。「ドーナツの穴」は生地を食べ終えた時に消えてなくなっています。ここに来て初めて、ドーナツをドーナツたらしめていた「穴」が、最初から確かなものとしては存在していなかったことに気づくわけです。
「憂国忌」は作家・三島由紀夫が1970年11月25日、市ヶ谷の自衛隊に殴り込みをかけて、隊員に決起を呼び掛けたのち、「縦の会」と称する私兵集団の弟子を道連れに自決した日のことをいう季語です。三島の自裁とその思想……これにどうしても共鳴できずにいる私が、この一句に「憂国忌」を取り合わせた理由はこんなところにあります。最初からなんにもなかったんじゃないの?
この一句は、写生を何よりも大事にする所属結社で侃々諤々の議論を呼んでしまいましたが、まあ、こんな俳句もありかなと思うわけです。
「穴」を詠んだ句には<灯火親しパズルにひとつ埋まらぬ穴>というのがあります。五七六の字余りにしたのは、クロスワードパズルの空白がぴったりと収まらない、もどかしい気分を云ってみたかったのでした。
裸木に一番星の灯りけり
冬の夕方、柳瀬川駅からの帰り道、中央公園の前を通ると葉っぱを落とした木の向こうに宵の明星がきらきらと光っていました。クリスマスツリーの飾りのように、金星が枯れ枝の中で輝いているように見えました。前の句と違ってとても素直な句になっています。「裸木(=枯木)」が冬の季語です。
