今日はくだけた内容の投稿です。

 

以前読んだ書籍に、各国の国民性を表すジョークが紹介されていました。

 

懐に入れる

 

ある酒場に日本人・アメリカ人・ブラジル人の政治家が集まって話をしていた。

 

日本「あそこに橋が見えるでしょう?」

アメリカ「立派な橋ですね」

日本「実はここだけの話、建設費の10%を懐に入れましてね」

一同、ニヤニヤ

アメリカ「あそこにビルが見えるでしょう?」

ブラジル「高いビルですね」

アメリカ「私は30%を懐に入れましたよ」

一同、爆笑

ブラジル「あそこにダムが見えるでしょう?」

日本・アメリカ「いいえ?」

ブラジル「100%懐に入れました」

 

何となく、ありえるような話の感じがします。

ここに中国が加わると、面白さが増しそうです。

 

ユダヤ式ジョークもありました。

 

ケチ狂想曲

 

ラビ(司祭)はユダヤの社会では尊敬を集めている人格者、精神的指導者である。その御仁が聖職者にあるまじき(?)目端のきいた振る舞いに及ぶ。

 

ある街に床屋が開店した。初日、カトリックの司祭が散髪にやって来た。

―おいくらですか。

―お代はけっこうです。神に仕える人からお代はいただけません。

翌朝、店の前には3本のワインが置いてあった。

午後、プロテスタントの牧師が散髪にやって来た。

床屋は前日と同じような対応を示した。

翌朝、3本の葉巻のはいった箱が店先に置いてあった。

夕方、ユダヤ教のラビが散髪にやって来た。

床屋は前々日、前日と同じような対応を示した。

翌朝、店を開けると床屋は3人のラビを発見した。

 

上のジョークはユダヤ人の尊敬の的であるラビを登場させて笑いを取る、という意外性という手法を使っています。ただ、敬虔なユダヤ人の場合は髪にハサミをいれるだろうか、という疑問は残ります。

 

短文のジョークもあります。

 

なぜユダヤ人の鼻はかくも立派なのか

―  空気がタダだからである

 

ユダヤジョークは、ユダヤ的知性である一歩退いて別の視点をとりうる心の余裕があり、ケチとずる賢さという二つのテーマを語って倦むことを知らなかった、と解説されています。

 

お国柄を表すジョークが味を出しています

 

国際線の飛行機が欠航になった。さて、そのとき各国の人々はどんな反応を示すでしょうか。

 

アメリカ人  ―契約違反だ航空会社を告訴するぞ

ロシア人     ―ウオッカ出るかな。

イギリス人  ―紅茶を飲んでから、あとのことを考えることにしよう。

フランス人  ―またいつものストか。諦めるしかないな。

ドイツ人   ―旅行会社に欠航の理由をきちんと説明してもらわなければ。

イタリア人  ―さあ、フライトアテンダントを口説くか。

イスラエル人―乗務員と乗客の冥福を祈る

アラブ人  ―これもアッラーの思し召しにちがいない。

日本人       ―飛行機が欠航したことを取引先にすぐに連絡しなければ。

中国人       ―とにかく食事を出してくれるかどうか、旅行会社に問い合わせよう。

韓国人       ―飛行機が欠航になったのは絶対に日本人のせいだ

 

 

考えさせられるジョークもあります。

 

5人のユダヤ人が世界を支配する普遍的原理を発見して人類の歴史を書き換えた。

まずモーセ。《すべては掟なり(契約の別名)》

つぎにイエス・キリスト。《すべては愛なり》

次にマルクス。《すべては金なり(経済)》

つぎにフロイト。《すべては性なり》

最後にアインシュタイン《すべては相対的なり》

 

モーセの十戒は、神との契約は「あなた個人と結ばれたもの」と規定していて、「あなたがた」ではないことが関連文献で説明されています。

 

1対1の契約という考え方は、それ以降の欧米社会を導くことになる大切な原理を導入したとのことです。

 

彼らの「個人主義」を承知していたとしても、私たち日本人はひどい目にあわされる恐れがあります。

日本人は、社会の一員として物事を考えるからです。

 

 

日本人のジョークには、暗黙の了解事項が必要な場合が多いようです。

たとえば、

 

生鯉を釣台に担わせ、使者、馬にて両国橋を行く。鯉がはねて川へとび込み、「南無三宝、いかがせん」と大騒ぎのところへ、水汲みが来かかり、「その鯉を取ってあげましょう」と、しょっている水を橋の上からダブダブと」あけながら、「滝、滝、滝」。

 

「鯉の滝登り」の話を知らない人にとっては、少しも面白くないことでしょう。

教養が必要なのです。