かっさんのつづれなるままに820

一つの映像がなかなか頭から消えない。それはウクライナとロシアとの捕虜交換時の、ロシア兵士のバスのなかでの表情だ。まず何と若い兵士たちだろうと思った。どの顔もあどけなく、17,8才に見える。次に思ったのはその表情。まるでごくありふれた日常の顔だ。帰還するという喜びも、戦場にいるというという恐怖感もその表情からは見えない。ただ着ている衣服から兵士とわかるのみ。その消えない頭のなかで『安斎育郎のウクライナ戦争論』を読んだ。ずいぶん前に九平研の仲間から送られてきた本だ。捨てようかどうしようか思い迷っていた本で、今日の長雨で退屈しのぎに広げて見た。広げて見て驚いた。のっけから「ウクライナ戦争の原因を作ったのはアメリカ政府とウクライナ政府だ」「西側メデイアのフエイク・ニュースにだまされるな!」「反ロシア・ウクライナ擁護の世論は極端に偏向している」といった文言が踊っている。しかも詳細な真実の裏付けを持って。著者は、盛んに流されている「ロシアが好き好んで始めた侵略戦争」とは違って、「ロシアの戦争」ではなく「アメリカの戦争」と断言し、ゼレンスキーは人道主義者でも英雄でもないとまで言い切っている。これを読みながら、自民党の総裁選挙にしても立憲民主党の党首選にしても、安保の「あ」の字にも触れないことに慄然とした。この本を手にすると、現政権の「戦争をする」ための準備はアメリカの戦略と思えてくるからである。

 

 

 

 

かっさんのつづれなるままに819

日本共産党の田村委員長が記者会見で発表した、「働く人の自由な時間を拡充するために力を合わせよう」は素晴らしい内容を含むものであった。まず「一日7時間、週35時間の労働制をめざします」にはびっくりもしたし共感を持って受け止めた。一日7時間というと、今までは午後5時まできっちり働いていたものが、4時には帰ることができる。本当に夢みたいな話だ。4時に帰るとなると、ゆったりと風呂にも入れるし、くつろいで本も読むことができる。5時だとそういかない。へとへとになって帰って風呂に入り、飯だ、飯だ、と騒いで、ぐったり寝床に向かうのが常だった。それと「小学校で4コマ」の見直し。これも大賛成。わたしは中学校の教師だったが、4コマのときはきつかった。これが3コマになると、午前中に2コマ、午後1コマで、実にゆったりでき、授業準備も、教材研究もしっかりできる。4コマのときは授業を終え、お茶いっぱいで次の教室へと走りこむ大変なものだった。だから、授業を見直すこともできず、直前にやった綬業をそのまま、二番煎じのように繰り返すのみだった。被害は教師のみならず生徒にも及ぶし、3コマだと、空き時間に前時の授業を発展的に見直し、より充実した授業が展開されることだろう。こうした動きは、最近出された『共産党と自由』という論文が実践的に反映されたものと言える。今回の総選挙では、自分としてもそうした「自由」を武器に戦いたいものだ。

 

 

かっさんのつづれなるままに818

日曜版を配達しながら「かつひろビラ」を入れているときのことだった。上川内の集合団地に入れ終わり、帰ろうとすると、入れたばかりのビラを座り込んで熱心に読んでいる老夫婦に出合った。座り込んで読んでいるのは男性の方で、女性の方は杖を手に、上からのぞき込んでいる。それを見て私は背後から声をかけた。「日本共産党のかつひろです。今度の選挙はよろしくお願いいたします」。すると、振り向いた女性の方が私の右手を強く握りしめ、うなずかれた。その力強いこと。声もかけられたかも知れないが、私の壊れた機械には届かなかった。トランプや、高市総裁候補などは、富裕層の岩盤層に支えられている。それは金と権力だ。だが、かつひろ候補は、明日の生活を細々と生きているこうした方々に支えられているのだ。そう思うと、決して落としてはなるまい。改めてそう思った。かつひろ候補を落とすことは、こうした老夫婦の希望を断つことになる。その日のビラは城上までの広範囲に100枚だったが、100枚のうちの一枚に、明日への希望をつなぐ人がいると思えて、汗びっしょりだったが達成感があった。こうした動きはさざ波のようにあちこちであるかも知れない。今はさざ波でも、やがては岩盤を突き崩す大きな波になる。私たちは諦めてはいけない。もう一つのさざ波。出勤途中だった中年の方が、郵便受けのビラを手に、目を落としながら歩いて行かれたことも付け加えておこう。

 

かっさんのつづれなるままに817

台風10号が過ぎ去った庭に、スズメが来なくなった。来ても数羽。台風で住居が破壊されたのだろうか。吹き飛ばされて怪我でもしたのだろうか。心配が絶えない。貞子さんは、新米が出回っているからそちらの方へ行ったのではと、能天気に考えている。そうか、そうかも知れない。台風で吹き倒れた新米は、結構なスズメたちの食糧だ。しかし、自民党農政の失政で、今年はコメ不足らしい。私が住む西側の広大な水田も埋め尽くされ、今ごろは新米が穂を垂れているのに、今年は埋め立てのための重機ばかりが意味もなく目立つ。十数羽のスズメたちの群れはどこに行ったのだろうか。ちゅんちゅんと、撒いた米粒を食べるスズメの姿は、私にとっては癒しそのものだった。庭にその姿がなく、俺たちは庭木だぞと、そんなに威張らんでもよいのに、庭木だけが胸を張っている。面白くもなんともない。時々風に乗ってダンスをするくらいが関の山。動きがないから、すぐに見飽きて眠くなる。今日もそうやってぼんやり眺めているうちに眠くなった。特に、児童クラブが休みの日にはそうだ。そうやってうとうとしていると、お父さんと、元気な貞子さが帰ってきて起こす。なんだ、貞子さんかと、ぼーっとした目を開ける。そんな日々で、認知症が進むのではと心配になってきた。とにかく、動きのあるものに目をやり、体を動かす。80才だから気を付けないとと思っていても、夏の疲れが私を眠くする。

 

 

かっさんのつづれなるままに816

暦の上の夏が過ぎようとしているが、まだまだだぞと、沸騰した夏は居座っている。思えば沸騰する夏のもと、児童クラブをがんばったなあと思う。何しろようやく採用した支援員の一人が、廊下水浸しをめぐって早々に辞めてしまった。子どものことだ、そんなに大げさに考えなくてもと思ったが、処理の仕方がまずかったのだ。その後、三人でやりくりしていたが、貴重な一人がコロナに襲われ、盆前後の二週間あまりを二人で回すこととなった。これこそ、老人虐待だと叫んでも、だれも助けてくれない。とにかく午前勤務の場合は午後。午後勤務の場合は午前と、体を休めることに徹した。好きな詩の勉強もできず、詩作もままならずの悶々、ぼーとした日々。児童クラブの閉鎖だけは避けようとがんばった。その間、教え子の二つの同窓会、若手の作文の会をこなした夏休み。残り一週間。80歳になった老人。元気だ。たまに仕事の手伝いに見える女性の方は、「疲れませんか」と声をかけてくださったが、「そりゃあ疲れますよ」と正直に答えた。ではその活力はどこから来るのか。それは子どもたちの飾り気のない笑顔。我々に見守られて安心しきってはじけているその笑顔。また、老人にとっては若い奥さま方の笑顔もうれしい。先だっては、その一人の方の相談を受け、胸はときめきながらももうろうとした頭で応対した。うーん、がなばってるなあ。兼ねて褒めない史郎さんも唸った夏だった。

 

 

かっさんのつづれなるままに815

長崎に私の大好きな男性トリオがいる。いずれも現役のころ作文の会のレポーターとして活躍し、今は退職し、それぞれの日々を送っている。このトリオを、仮に、Kさん、Mさん、Dさんとしておく。Kさんは退職後農業に専念し、詩集のお礼におコメをいただいた。Mさんは日刊紙配達に年金者組合にと、獅子奮迅の活躍で、私の本を送ると負担になるので控えている。Dさんは市議を一期務めた後、病気療養中だが、詩集を除けば、私の著書の感動的フアンだ。そのDさんから『カラスの言い分』という、奇妙な詩集の感想が届き、冒頭から理解に苦しむとあった。トリオの三人がとびっきりの美人に会ったとする。Kさんは「すげえ美人だ」と言う。Mさんは「なんか冷たくない」と、ポツンと一言。Dさんにいたっては、「つんと澄ました顔が気に食わない」と怒りの声。人それぞれだが、詩集を詠む際もそうである。詩集を理解する必要はない。感じればいい。電柱にとまっているカラスを理解しようとはだれも思わない。なんだカラスか、カラスのくせにカラスだぞと威張っている。それでいい。理解しようとするから、カウーカウーとカラス。『カラスの言い分』という陳腐な詩集もトリオのみなさんが出会ったときの美人の感想でいい。分からなくしたのはカラスの責任だから読み手に罪はない。あくまでカラス。いきなり長崎の仲間を舞台に上げてすみませんでした。これもあれもカラスのせいで、私に罪はない。

かっさんのつづれなるままに814

暑い。とにかく暑いのである。幼いころもこうであったのだろうか。夏だから当然暑かったが、もう少しからっとしていたように思う。今は蒸し風呂だ。暑いさなか、小さいころは泳ぎに行きたくても、強引に昼過ぎの2時までは昼寝をさせられた。昔は日射病と言っていたが、いまで言う熱中症対策であったろう。2時になると、4時ごろまでは水につかっていた。近所の子どもたちもみんなそうだった。多いときは30名近くの子どもたちが泳いでいて、水の中で体がすれ違う時のヌルっとした感触は、今でも記憶に鮮明だ。泳ぎ疲れて、西日を浴びながら帰る足取りは、まるで夢遊病者のようだった。今の子どもたちはどうだろう。児童クラブの子どもたちは一日中クーラーの中にいる。泳ぎに連れていきたくてもライフジャケットが必要。まったく子どもたちのなかから野性味が失われていくようで心配だ。うちの孫たちは、私の監視のもと、自由に裏の川で泳いでいた。ある時はもう時間がないと、孫にせがまれて川に出かけて行ったこともある。おかげさまで3人が3人とも、順調に、子ども時代をセミの抜け殻として潜り抜け、大人になっていったような気がする。一人は看護師として。もう一人はレントゲン技師として。最後の一人は高2だが、消防士になると言っている。この子たちの成長を見届けて私は、それこそセミの抜け殻となっていくのだろう。遠くの木々で、ひと夏の命を激しく蝉が鳴いている。

かっさんのつづれなるままに813

初任校の同窓会は、みなさん70代に突入したせいか、とんとお呼びがかからなくなった。

なかには実行委員の一人が病気で亡くなり、もう一人は悪性リンパの病気と格闘中である。というわけで、20代のころ沸騰した有明も遠くなっていく。もう行くこともないだろうな。そこへ、川内の同窓会がにわかに騒ぎ出した。10日は旧高城東中の、11日は東郷中のと、声がかかっている。東郷中の実行委員のメンバーには、市役所に勤めている方が多いせいか、実に丁寧で緻密である。なんでも先生方の近況を紹介するというので、近況を教えてくださいとの電話がきた。そこで八幡の児童クラブに勤めていることと、詩の勉強をしていると伝えた。そこまで話して何か物足りなくて、耳が遠くなり、補聴器に頼っていることを付け加えると、ダメダメ、それを言っちゃおしまいよと、市役所らしいお断りが来た。うーん、自分にとっては最も重要な近況であるのになあと、渋々と撤退。教え子のなかには、耳も目もいきいきした現職のころの私がイメージとして残っているのであろうなと、ちょっと淋しくなった。また、売れない詩集20冊を会費で買い上げるといううれしくも、申し訳ないことばもあった。いま働いている児童クラブは支援員不足で火の車。一日一日を大事にして本番に備えようと思っている。まずは旧高城東の同窓会を無難にこなしたい。こちらの方は郷里の学校とあって万事がのんびりしている。

かっさんのつづれなるままに812

私がまだ小さかったころ、川向のOさん宅には近寄るなと、父からきつく言われた。あっちこっちとほっつき歩く私だったから、親としては心配だったのだろう。Oさんはシベリア抑留帰りで、帰還したとき、何でも「共産党万歳!」と叫んだらしい。それ以来、保守的な村人は、殺人者のようにOさんを忌み嫌った。父もその一人で、共産党になると、私有財産のすべてを奪われると、口を酸っぱくして私に言い聞かせた。小さい私にはそのことが、まるでそばによると悪い伝染病にかかるかのような恐怖となった。前にも書いた覚えがあるが「私有財産」のことは今でも、私の手元の電子辞書にさえ「私有財産の否定」と出ている。共産党にあこがれながらも私の入党を遅くしたのは、この幼児期に刷り込まれた恐怖が抜けなかったせいである。今の綱領には、生活手段と生産手段とをはっきりと分け、生活手段の保有は保証されている。もう一つ、私に立ちはだかっていた壁は、党に入ると「自由」が無くなるというものであった。しかし、入党してみて逆に、その自由は広がった感がある。むしろ、共産党には自由がないという壁をつくり、不自由な暮らしをしていた自分がいたことが分かった。党に入ってからというもの、だだっ広い自由な広場で、思い切り、のびのびと教育実践ができるようになった。今回、志位議長が出した「共産主義と自由」という本のことを思えば、そのことを強く思っている。

かっさんのつづれなるままに811

朝四時。商業新聞に目を通す。しばらくすると、ジュジュルル。ジュッジュッ。スズメたちが朝食を求めてやってくる。おお、来たか来たか。貞子さんがスズメ用に準備した餌をパッパパッパとまくと、今か今かと電線に並んで待っていたスズメたちが、ふわりふわりと舞い降りてくる。食べ残しの米粒だが、プツンプツン飛ばしながら食べる姿がかわいらしい。なかには子連れのスズメもいて、チッチッと羽を震わす我が子に、せっせと餌をやっている。鳥たちの世界に児童虐待はない。ましてや生み落としてすぐに、我が子をバケツに捨てる親もいない。そうこうするうちに、「しんぶん赤旗」が届く。国内や世界の出来事をつぶさに頭に入れ、私の一日の始まりだ。夕方。黄色くお化粧したおしろい花や、ピンクの顔に黄色いすじを引いたおしろい花、赤に黄色の口紅を施したおしろい花などが次々と咲く。おしろい花の饗宴。それを眺めながら、テレビニュースで一日をおさらい。八幡児童クラブのあれこれを思い、都知事選や県知事選の結果に心を重くして今日の私を閉じるべく床に向かう。夕べは、亡くなった嫁の、お父さんお母さんの夢を見た。これから水俣の姉のところへ行くという。今夜はどんな夢ドラだろう。一日の重みをドサッと床に投げ捨て、目を閉じると、わが平和な一日が思い浮かび、ウクライナの子どもたちの姿が児童クラブの子どもたちと重なり、深いため息の夜が下りてくる。