次男
高校に復学してから一年半
「のんびりしていたら
出席日数がぎりぎりになってたよ。
今日は一日学校だ」
「まあ1年や2年の遅れじゃないから
焦ったりもしないんだけどね」
とも言い
切羽詰まった感は まったくない
玄米ごはんに
たたき梅をまぜたおにぎりをふたつ
いつものように用意
これがちょうどよく
たべやすいのだそうで
横に作って
そっと置いていた
しらす干し入りの玉子焼きには
手もつけず
目もくれず
おにぎりだけを持って
出かけていきました。
そのとき
そのときに
思い出しては過ぎ去っていく
記憶の断面
今となっては
過去となった子ども4人の不登校の記憶
思えば4人とも
常に自分に何が合うか合わないか
何を求めているのか
はっきりと持っている子たちばかりだった気がする
ただそれを
母がピタリとわからずに
右往左往してただけのような気がする。
学校や親が提案した
学校適応教室や
フリースクールや
子ども・若者総合相談センターや
よく居場所と
言われているところは
公立民間を問わず
ここはどうかと
探しては提案を繰り返していたが
何回かはしぶしぶ一緒に行ってはくれるものの
結局のところ
ことごとく却下となっていた。
「ここではないみたいだ」と
はっきりと言い
我が家を居場所としてチョイスした。
子どもを社会とつなごうとしないのは間違っている
親は何をしているんだ
一般的には言われてもおかしくない状態ではある
客観的にはそのとおり
家庭内という閉塞感のある空間にずっといると
まわりからはその様子は見えにくい
その状況に戸惑って
右往左往していたのは母親だけ
責任を強く問われる母親だけなのです
このままでいいのかと
常に追い詰められた精神状態にいた
今となってはそんなことあったっけという感じではあるが
夫を含む他の肉親たちは
社会的な自分を守ることが最優先となっていたし
母親のみが原因というところに落ち着かせていたようだったし
当時のわたしは孤独との闘いでもあったんで
子どもたち4人をつぶさずに
全員の不登校のそばに
寄りそうことの重圧に耐えられるかどうか
要するに
母親の待つチカラが信じるチカラが
試されていたと思うんです。
思春期外来の受診は
こどもではなく母親のみが受けていた。
次男は動き出す直前は
自傷をほのめかす発言があったので
通院することになったが
他の3人については受診を拒否。
子どもたちは
至って冷静だった気がする。
わたしとはあきらかに違う
自分でカスタマイズした道を歩くことを
決めていたような動きだったし
子どもたちそれぞれの感覚と選択を尊重するしかない
わたしはそう決めていた。
自分で決めて自分で動く
その邪魔をしないこと
この方法が
失敗も多いかもしれないし
遠回りになるかもしれないが
結局は早いのかもしれないと
それを信じるしかないと
決めていた。
長男次男は親が勧めても
大学にいきたいとは言わなかった。
学校には行けないが
勉強はしたいと
長女と次女は言うので
家庭教師の先生をお願いしていた。
何人か来てもらったうちの
ひとりの先生に対しては
ふたりとも相性がよかったらしく
現在でもお付き合いがある様子。
ナナハンのバイクにまたがり金髪姿で現れた
大学生バイトの先生には最初は驚いたが
現在はママさん歯科医として活躍されていると漏れ聞いている。
長女は5年かかって高校を卒業、大学には7年在学、
次女は3年遅れて入学して大学4年間
ふたりとも国公立大卒となって今に至っている。
大学に関しては、
伴奏してくれたその先生の影響は大きかったと思う。
感謝。
この話
何度も同じ下りを書いている
自分の中で
同じことなのに
同じでないと感じるのは
過去を語る今の自分の気持ちが変化しているんだろう。
毒吐きが減ってきている気がしているのわたしだけかな
いつもすいません・・・
ひとつ
今日は追加で書きたい
無責任にたくさん産んだ考えの浅はかな母親が悪いと
ぼこぼこに言われたりは普通にあったんで
産んでもいいけど
ご自身の力量を見定めて親になってください
そうでない場合は修行を覚悟して親になってね
という感じかな。
社会の雰囲気は
ポジティブシンキングで
少子高齢化に歯止めをかけるなんだけど
それは
子どもを増やして
高齢者を減らすしか
実現しないので。
いくつから高齢者なのかっていう問題は
ありますよ
生涯現役の方もたくさんおられますから
そもそも高齢者など存在しないっていう概念もあります。
わたしが親になった40年ぐらい前の話になりますが
子どもは2人ぐらいが常識と言われた時代
それ以上産むと保健師さんという方から
家族計画というご指導を受けることになってた時代です。
家族計画ってなんぞやっていうことなんだけど
たくさん産むなってことだったのよ
その時代
4番目次男のとき診察してくれた産婦人科の先生なんぞ
くっきり写されたエコー画像を見ながらの言葉
今も忘れない
「どうされますか?」
何をどうしましょうって感じなんだけど
そういう時代でした。
わたしは次男に対して
わたしの4番目の子としての
「生」を選択したわけですが
まあ 大変だったのは
言うまでもないんだけど
その時代に
運よく生を受けることができた少数精鋭の子たちが
今、親になるバリバリ世代の
30歳~40歳ぐらいになっているってことなのよね
どんな応援が社会からもたらされるのか
どんな対策をなさるおつもりなのか
しっかと見させてもらいたいと思っています。