サイパン慰霊の旅 | 中島武オフィシャルブログ「中島武日記」Powered by Ameba

サイパン慰霊の旅

3/8~11、サイパン島のアジア太平洋の塔の

慰霊の旅に行ってきました


思い返せば私がまだ学生時代、

たぶん1968年に

マリアナ諸島が大型台風の被害に遭い、

我々有志がその復旧活動に行きました。


当時1ドル360円の時代。


旅費も高く、アルバイトをしてチケットや滞在費を捻出して、

勇んで旅立ったのを思い出します。


これが私の海外旅立ちの第一歩でした。


この台風被害復旧支援隊…

今はボランティアと言う言葉になってますが、

当時はそんな洒落た言葉もありませんでした。


台風被害支援の前の年、

私達拓大を中心としたメンバーで、

戦没者の遺骨収集に行きました。


現在拓殖大学の理事でもあり、

私の拓大応援団の一期先輩でもある、

河田昌一郎さんを団長として行ってまいりました。


その後に私たちが台風被害の復旧に行きました。


来る日も来る日も壊れた小学校を片づけ、

1日ブロック工場でブロック作り。


赤い夕陽がヤシに映るのを見て、

東京の生活が…


暑い暑い毎日でくたくた。


宿舎は米軍が残したかまぼこハウスで、

自炊でした。


毎日毎日の作業の中で、

戦時中に日本人が身を投げたという、

バンザイクリフ (米軍はスーサイドクリフと名付けた)

へ行き、手を合わせました。


心の中で、

さぞ辛かったでしょう、

苦しかったでしょう…


二度と戦争を起こしてはいけない。


二度と人と人とが殺しあってはいけない。


ただただ、祈るだけでした。


我々のグループで

誰が言い出したのかは記憶にありませんが、

角材を切り、そこに大東亜戦争戦没者慰霊碑

と書き、建ててきました。


私も精一杯、筆を握って書いたのを想い出します。


関西磯釣り協会の方々が

島へ魚釣りをしに来たときに発見した


ここにこうしてこの日があるのは…

ということで拓大に話があり、

現在建立されているコンクリートの

母子の像を建てるという経緯となりました。


これもまた拓大生たちで旅費など捻出、

徹夜の作業でこの塔を建てたのが1970年。


太平洋の平和と繁栄を祈って


と書き記してあると思います。



早や45年。

皆、歳も取りました。


今一度、このサイパン島バンザイクリフで

手を合わせ、祈りました。


あの時と少しも変わらぬ気持で祈りました。


世界の平和を、

人類が二度と戦争を起こしてはならぬ。


という祈りを母子の像は

ずーっと海原に向かい祈り続けております。


マリアナ諸島台風被害復旧支援隊隊員 

拓殖大学 中島武