おはようございます。

 

 昨日は曇りのち小雨でしたが、今朝は濃い霧のあとに青空が覗いています。

 

昨日は朝から長男の施設に行き、小遣いを渡して少し話をしてきました。10時過ぎには孫から連絡があり、彼らは1時頃にやって来ました。

 

息子(三男)は仕事で6時半頃にやって来ましたが、決算期で忙しいようです。彼は疲れていたようですが、スマホのラインや車のブルートゥースの設定などをしてもらいました。

 

 

上月城址に見る戦国時代

 

目高集落へ向かう道の入口には、歴史資料館や紙漉き和紙の伝承館があった。和紙伝承館には明かりが点いており、初老の男性がいたので話を聞いたところ、資料館は訪問客も少ないので平日は閉館しているようだ。

 

ここ紙漉き伝承文化館は室町時代からの記録があり、明治時代以降に一旦衰退した後、平成後期に再興された楮を原料とする和紙の文化を伝えているようだ。

 

彼の話では上月城への登山道は整備されており、10分ほどで頂上に登りことができるということだったので、資料だけもらって上月城址に登ってみることにした。

 

尼子橋を渡る

 

和紙伝承館前の広場に車を停めたまま、山裾の小川に架かる「尼子橋」という小さな橋を渡った。この谷の水は、先ほど訪れていた「目高」集落から流れ下っているのではないかと思われる。

 

対岸には尼子勝久の追悼碑、その家臣山中鹿之助の供養塔、赤松家家臣小寺家の墓碑の他に、「神西三郎左衛門元通」という追悼碑があったのであったので少し調べてみたところ、尼子氏の武将だったようだ。

 

尼子勝久公追悼碑

 

この地方は、織田氏信長の播磨攻略以前には、播磨守護赤松氏の支配下にあり、その庶流上月氏が気づいた山城で、上月氏は嘉吉の乱(1441年嘉吉元年に赤松満祐が6代将軍足利義教を暗殺)で滅亡している。

 

その頃中国地方では、出雲(島根県)月山富田城に本拠を置く山陰の雄尼子氏が勢威を誇っていたが、毛利氏の勃興により、尼子氏は滅亡の憂き目にあっていた。

 

折しも、織田信長が勢力を伸ばして播磨から中国地方を窺っていた頃に、尼子勝久を担いだ重臣山中鹿之介幸盛は上月城を拠点に織田信長方に与して御家再興を図った。

 

 山中鹿之介追頌碑

 

播磨佐用郡一帯の攻略を行っていた織田軍だったが、上月城後略に手こずっていたところ、三木城主別所長治が反旗を翻したために上月城後略を諦めたため、孤立無援となった上月城は毛利方の猛攻で落城した。

 

 五輪塔

 

結局、尼子氏再興を図った勝久は自刃し、山中鹿乃介は捉えられて毛利方の備中松山城へ護送される途中に殺害されている。

 

 神西三郎兵衛元通追悼碑

 

 そこで、神西三郎左衛門元通は毛利方の調略によって他の諸将とともに尼子氏から毛利方に付いていたが、その後織田軍羽柴秀吉の攻略により、再び尼子氏に味方したのではないかと思われる。

 

小寺家の墓碑

 

 小寺氏は播磨守護職赤松氏の一族で、羽柴秀吉の播磨攻めの頃には毛利氏に与していた武将で、先年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」にあったように、官兵衛は秀吉の配下として上月城を攻めている。

 

この辺りの人間模様は複雑極まりないが、要するに戦国乱世の時代には今日の味方は明日の敵となり、昨日の家臣によって今日は討たれるという下克上の時代だった。

 

 様々な追悼碑群を望む

 

ここ上月城やその北部に在った福原城、平福の利神城(2年ほど前に訪れたる宮本武蔵所縁の地)は、播磨と美作、伯耆の国境にあり、攻防の激しかった土地柄だ。

 

様々な追悼碑や供養塔はそれら戦国時代後期の攻防の跡を物語っているようだ。

 つづく

 

 読んでいただきありがとうございます。