今日は朝から走り回り、午後には電気店やスーパーへ買い物に行きましたが、今夏一番の暑さかもしれませんね。
平家所縁の地を訪ねて―「畑」集落と伊賀氏―
吉田氏の説明によると、小さい方が安徳帝の祀るもので、その隣の少し大き目の石は守役でもあった伊賀平内左衛門尉家長の墓だそうだ。
右が伊賀氏先祖を祀る
童子の姿を掘った地蔵尊には、文字は全く認められなかったが、丸っこい墓石には「伊賀氏・・・」という文字が微かに確かめられた。これも源平合戦直後には伊賀氏と書くことも憚られたことと思われ、後世になって刻まれたものだろう。
左の安徳帝を祀る地蔵尊
吉田氏の話に、私は
「伊賀さんと言えば、この但馬地方のご出身で、高校で剣道の先生をしていた人がありましたが、もしかしてその人はご存じないでしょうね?」
と言ったところ、まさしくその人物だった。
伊賀氏屋敷跡地
私よりも一回り若かったように思われる彼が代々続いたここの屋敷地の当主であり、現在神戸市東灘区の方に住んでいるということで、今ではこの日案内してくれた吉田氏に全て任せているようだ。
神社を後にすると、「いろんな資料もあるので、ぜひ家に寄ってほしい」と強く勧められ、恐縮しながら申し出に甘えて玄関を入った。すると、左手の壁には雪景色の畑集落の白黒写真が掲げられていた。
吉田家玄関の畑集落写真
この集落も60戸ほどあったようだが、今ではその半分になっているそうだ。奥さんも出てこられ、彼は
「奥さんも呼んで、是非奥の方に入ってください」
と勧められたが、それはあまりにも厚かましいと固辞した。
畑集落の記事
彼が様々な資料を持って来て、活字でつづられた伊賀氏先祖の家系略図と、今の伊賀氏が記述したという10ページほどの冊子を手渡してくれたが、これはいただけることになった。
右は畑集落の続き、左は土生集落の記事
他にも様々な資料を見せてくれたが、比較的分厚い本にはこの畑集落や一山越えた所の土生集落のことが述べられており、ここでは読む暇がなかったので写真に収めた。
18年3月18日付神戸新聞記事
昨平成30年3月18日付の神戸新聞記事も見せてくれたが、それにはここ畑や土生(はぶ)、御崎(みさき)などの集落が記されていた。御崎にはこの後訪れる予定にしていたが、土生には改めて行ってみたいと思う。
伊賀氏が記述されたという冊子は帰宅後ゆっくりと読ませていただくことにして、車で待っている妻のことも気になり、吉田氏ご夫妻には丁重にお礼を申し上げて辞し、次の三馬へ向かうことにした。
読んでいただきありがとうございます。