2023/5/31投稿



1992年10月1日は忘れられない1日となった。1949年12月の開場以来、1907試合目の公式戦だった福岡県福岡市にあった「平和台球場」。神戸時代からの友人『道中』と、佐賀短大で同じ食物栄養学科に通う田島くんの3人で平和台球場の最終戦へ行くことになったのだ。(*^^*)


当日は田島に下宿島村まで迎えに来てもらい、田島の実家に車を止めて、歩いて西鉄電車犬塚駅に向かった。道中は東亜大学に通う為に、西鉄大橋駅近くのアパートに住んでいた。道中とは転校した小学校で最初に出来た友達で、一浪して九州に来たっていう所まで何故か一緒。

四年大学に入ったが勉強よりも陸上部の練習と飲み会に忙しく、福岡と佐賀という距離もあってしょっちゅう会う訳ではなかったが、初めてあった田島くんとかともすぐに仲良くなる社交性は大したものだった。(ちなみに高校も同じで、道中はハンドボール部だった。)

そんな道中と西鉄大橋駅で待ち合わせ、そのまま西鉄天神駅に向かった。(*^^*)



『平和台球場』は、1950年代後半には最強を誇った西鉄ライオンズの本拠地としてにぎわいを見せた球場だ。博多っ子の気質もあるのか熱狂的かつ荒っぽい応援でも知られ、観客がグラウンドに乱入したり、物の投げ入れが頻繁に起こった球場でもある。


ただ、黒い霧事件もあって人気も成績も低迷。西鉄から太平洋クラブ、クラウンライターと名前を変え、78年には西武が買収し、本拠地も埼玉県所沢となった。


帰ってきたのは1989年だ。チームはライオンズではなく、往年のライバル、ホークスだった。南海を買収したダイエーが福岡を本拠地とし、平和台を使用することになったのだ。ただし、すでに87年に球場の敷地内に遺跡が発見され、球場を取り壊し、歴史公園を造る計画が進んでいた。92年限りでの「福岡ドーム」への移行は既定路線でもあった。



残念ながら近鉄バファローズの内野自由席しか買えなかったが、中に入れただけでも奇跡に思えた。


「田島くんは何度か野球見に来たことあるんやろ?」

田島くんが意外と野球好きで、西日本短大付属高校も野球が強かったのもあるが、結構詳しかった。

「家族で何回か見に来たことあるよ。」

すると、道中もすかさず

「俺も大阪球場で南海ホークス時代に野球見に来たことあるで〜」

道中は昔から負けず嫌いなのか、そういった話には必ず自分の話をぶっこみたがる。道中ワールドに巻き込んで、仲良くなるきっかけを作っているのかもしれないが、話が長いのが玉にキズである。(^o^)


「あ、近鉄の大石大二郎や。」

ついついはしゃいでしまった。大石は近鉄バファローズの切り込み隊長でパンチ力もあり、顔も男前ときたもんだ。


ちょっと遠くてわからんけど、サードだから金村さんだな。(*^^*)


おっ、近鉄の背番号5番は村上選手です。(^^)


「正ちゃん、向こうにはダイエーホークスの田淵監督が見えるよ。」

田島くんもそうなんですが、内野席だから近鉄の選手がよく見えるけどダイエーホークスの応援に来たんですよね。それも不惑の大砲『門田博光』さんの引退試合ですから……(^o^)


「うわぁ、ブライアント来たで!!」

そう、俺が好きな中日ドラゴンズの2軍でくすぶっていた『ブライアント』を、近鉄で不祥事を起こして退団した外国人の代わりに無償で移籍させたら、打つわ打つわのホームランキング。なんで中日では打たなかったんでしょうか?


眼の前には新外国人の『リード』がキャッチボールを始めました。

今日のダイエーホークスの先発はドラフト1位の『若田部健一』。田島くんも健一。それはどうでもいいんですが、近鉄バファローズの先発は“トルネード投法”で8球団ドラフト1位の『野茂英雄』。ひで〜お、ひで〜お、ひでおがいるから大丈夫♬って応援団が歌ってますが、こんな近くでスター選手が見れて幸せです。

それではそろそろプレイボールみたいですよ。頑張れホークス、頑張れ若田部!!……続く


『感想』
もうすぐ20歳を迎えるという頃に、いまの福岡みずほPayPayドームが出来るので平和台球場を取り壊すという話を聞きました。チケットが取れるか取れないかわからなかったけど、友人3人が平和台球場に来たのを懐かしく思います。