2023/3/30〜4/2投稿


大国神社の奥に、絵馬が飾られていました。


『絵馬奉納所』の先には『天神社』があります。(^^)


“コロナ退散”とか書かれた絵馬は減りましたね。(・・;)


朱塗りの社殿や回廊が多い厳島神社(いつくしまじんじゃ)で、ひときわ異色の建物が天神社。


その名の通り、菅原道真を祭神とする天満宮で、弘治2年(1556年)、毛利元就(もおりもとなり)の子、毛利隆元(もおりたかもと)の創建。


親子で陶晴賢を厳島の戦いで滅ぼした翌年に奉納しています。


天神社は室町時代に盛行した連歌会所の遺構でもあります。(^^)


能舞台と同様に、丹が塗られていない素木(しらき)なのは、社殿群の中では新しい時代の建物のため。\(^o^)/


板壁でなく漆喰壁であるのも,室町時代の住宅風工法だからです。(^o^)


神仏習合の明治時代の初めまで、毎月連歌の会が催されていたそうですよ。


 戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退する。(*^^*)


毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島を含む一帯を支配下に置き、厳島神社を崇敬するようになると再び隆盛した。



「神を斎(いつ)き祀(まつ)る島」という語源のように、古くから島そのものが神として信仰されていたという厳島(宮島)。


その海上に神秘的に建っている嚴島神社は、1996年世界遺産に登録されました。


多くの人々が信仰したという古式ゆかしき神社でもあり、四季を通じて国内外から多くの人々が訪れる観光名所です。


嚴島神社は推古天皇元年(593年)、佐伯鞍職が創建。その後平清盛が、安芸守(あきのかみ)になったことにより、嚴島神社を厚く信仰。


武士として初めて太政大臣となった清盛は、仁安3年(1168年)頃に現在のような寝殿造りの海上社殿を造営したといいます。


その後、1571年に毛利氏によって御本社本殿の改築や反橋や大鳥居の再建など大規模な修復が行われたそうです。


そもそも、嚴島神社は潮の満ち引きのある場所にわざわざ建てられたのでしょうか。


宮島全体が神と捉えられていたため、木を切ったり土を削ることで「ご神体」を傷つけないようにと潮の満ち引きのある場所に造られたといわれています。


嚴島神社は古代から瀬戸内海の安全を祈願する参詣者が多く訪れました。(*´∀`*)


平安時代後期より平清盛が深く信仰したことから、神社の名は広く知られるようになりました。(*^^*)


そして、瀬戸内海を往来する漁民や、商人たちの「嚴島詣」が盛んになっていきます。


江戸時代には伊勢詣、四国遍路と並んで西国の民衆の代表的な参詣地として流行したようですよ。



前面の青々とした海、背後に広がる緑の弥山原始林を背景とし、神社建築の魅力を際立たせる朱の嚴島神社は、松島、天橋立と並ぶ「日本三景」の一つとして有名です。


御本社の祓殿正面にある高舞台は、大阪の四天王寺・住吉大社の石舞台とともに舞楽の「日本三舞台」といわれています。


嚴島神社の神事である「管絃祭」は毎年旧暦の6月17日に行われています。


満潮時には青い海に浮かび上がる大鳥居と社殿の優美な姿が、また干潮時には鳥居の足元まで歩いて渡り、その迫力を間近に感じることができます。


また、干潮時には砂浜から水が湧きだし形作る「鏡池」が、境内3か所に出現します。










平清盛によって大阪・四天王寺から伝えられたという「蘭陵王(らんりょうおう)」「納曽利」などが現在も伝わっています。


年に約10回の祭典の後に大鳥居と海を背後にしながら披露されています。


きらびやかな装束で優雅なものがあり、平安時代にタイムスリップしたような気分に浸れますよ。……続く


『感想』

朝の7時過ぎなのでゆっくり見れましたが、だいたいは鹿と観光客がすごい場所です。それはやっぱりこの絶景からパワーが貰えるんでしょうね。青春18切符で船に乗れるから、凄くお得感がありました。\(^o^)/