2023/3/25~3/27投稿


『大天守台跡』って書いてありました。(^o^)


鉄御門跡の石段をのぼり、さらに見学用に設置された階段をのぼり、埋門をこえる橋を渡ると、天守台跡にたどり着きます。


東西約25m、南北約22mの敷地内に約40個におよぶ天守の礎石が残っています。 


福岡城の天守はその存在が疑問視されてきましたが、近年になって見つかった史料によれば、この上に5重6階、高さおよそ23mほどの熊本城級の天守があったと推定されています。


福岡城は平山城で、天守台は市街地からおよそ30mほど高い位置にあるため、思ったよりも眺めがいいです。 


福岡タワーや福岡ドームも見渡せます。(*^^*)


真下には昨日歩いた大濠公園が見えますね。


あちらにも行けるみたいなのでいってみます。


あんまり眺めは良くないですね。(´・ω・`)


『埋門跡』って狭い場所がありました。(^o^)


合戦時(籠城の際)には内側から土壁などで埋めて通路をふさぎ、敵の侵入を防ぐ役割があったそうです。(^o^) 


また城主の脱出ルートを隠蔽するために、隠し通路として採用された門だそうです。



『武具櫓』と書いてありました。(*^^*)


別名「武具櫓」とも「西平櫓」とも呼ばれる、この多聞櫓は1971年(昭和46年)12月28日に国の重要文化財に指定されています。


この多聞櫓は石垣に沿って、多くの石落としを備えた防衛用の平櫓で、平時においては武器庫として使用されていました。 


また、有事の際には編んでいる竹がすべて弓の矢になり、それらを結んでいる干しワラビは食料になるといった工夫もされていたそうです。 


多聞櫓がある南丸(みなみまる)は二の丸南郭(にのまるみなみくるわ)とも呼ばれている場所で、二の丸の南側に張り出す形になっています。 


福岡城一帯は律令時代、外国の使節が来朝した際の接待と宿泊のために設けられた「鴻臚館」が置かれたこともあったが、長政の時代には寒村であったという。


いわゆる「黒田二十四騎」のひとり、野口一成が普請奉行となり、慶長6年(1601)から足かけ7年で築城された。


福崎の名称は、黒田家ゆかりの備前国邑久郡福岡(備前福岡城)にちなんで福岡に変更されている。


以後、黒田氏の居城として幕末まで続きました。(^o^)


城好き、歴史好きにはたまらない場所ですね。


『桐の木坂』と書いてました。(*^^*)


桐ノ木坂御門跡を出たところ、一直線に続く石垣も見事です。


ここには野面積みも見られます。



なんか門が開いてました。中に入れるみたいです。\(^o^)/




別名「武具櫓」とも「西平櫓」とも呼ばれる、この多聞櫓は1971年(昭和46年)12月28日に国の重要文化財に指定されています。


この多聞櫓は石垣に沿って、多くの石落としを備えた防衛用の平櫓で、平時においては武器庫として使用されていました。 


また、有事の際には編んでいる竹がすべて弓の矢になり、それらを結んでいる干しワラビは食料になるといった工夫もされていたそうです。 


多聞櫓がある南丸(みなみまる)は二の丸南郭(にのまるみなみくるわ)とも呼ばれている場所で、二の丸の南側に張り出す形になっています。 


冠木門をくぐると南丸で、右手に多聞櫓が見えます。


凄い見ごたえがありますね。\(^o^)/


『生捕櫓』と書いてありました。(^o^)


写真中央から右へ延びる石垣の上に生捕櫓があった。 (*´ω`*)

 
水ノ手御門のすぐ横で、 左奥の石垣は御武具櫓の東端の石垣です。 \(^o^)/


生捕とか人質といった名称の建物は、熊本城にも府内城にもあった。 どういう云われがあるのだろうか気になりますね。……続く


『感想』

感想は特になし・・・なんて言いたい所ですが、このブログを読んで、九段下の皇居を思い出しました。元の江戸城があったあの場所の見事な桜。まだまだいきたい場所、見たい景色を生きている限りみたいなあ~なんて思いました。(^∇^)