2023/6/12~6/13投稿


永禄10年(1567)に、毛利元就の三男・小早川隆景によって築かれた三原城。


瀬戸内海に面した地に島を繋いで築かれた、いわゆる「海城」です。


水堀はもちろん海水が入り込んでいるため、潮の香りを感じながら散策できます! 


満潮時には海に浮いたように見えたことから、別名「浮城」とも呼ばれていました。


とりあえず、記念撮影です。\(^o^)/


山陽道を取り込んだ三原城は、水軍の海城として活躍した歴史もあることから、海・陸の要所である好立地に選地されたことがわかります。


なお、現在のような近世城郭の姿になったのは、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に入封した福島正則期以降だと考えられています。


東西約900m×南北約700mの巨大城郭! 当時、櫓の数は32、城門は14もあったそうです。


実は、三原城の天主台はこれまで廃城・破壊の危機に直面しながらも、2度もピンチをくぐり抜けたキセキの城なのです。


一つ目のピンチは、慶長20年・元和元年(1615)に幕府によって定めらた「一国一城令」です。


原則、一つの国(大名の領国・藩のこと)に一城のみというルールで、それに当てはめると、三原城のある広島藩は拠点となる広島城のみが残ることになります。


しかし、三原城は広島城の支城として、壊されることなく残ったのです。これは、とても珍しいこと! それだけ、徳川家が三原の地を重要視していた証なのかもしれませんね。




ちなみに、元和5年(1619)に定められた「武家諸法度法」に違反し、幕府の許可なく広島城を改修した福島正則は、領土を没収されてしまいます。その後、三原城には浅野忠吉が入封し明治時代まで続きました。


二つ目のピンチは、明治時代になってから。明治27年(1894)に、山陽鉄道・三原駅が本丸に跨がる形で開業しました。


城の迂回を検討するなど、三原城を残すための保存活動も行われたようですが、残念ながら一部を残して三原城は壊され、撤去された石は糸崎港建設の石材として転用し、海と接していた水堀も埋め立てられてしまいました。



結果、三原城本丸を通過する最短ルートでの開業となりましたが、天主台が残ったのは、まさにキセキ! 


もう少し北にズレていたら、この天主台を今も見ることは叶わなかったかもしれませんね。


そろそろ電車が出る時間なので、戻ります。


酎ハイとパンがギリギリ買えました。(*^^*)


広島駅に着きました。15分くらいで福岡行きのバスが来ます。\(^o^)/


今回の“忘れ物を辿る旅”は、青春18切符と高速バスで辿りました。(*^^*)


さあて、次は何処の“忘れ物”を辿りに行くか、See you next travel\(^o^)/……終わり


『感想』

広島と高松の忘れ物を辿って行きました。ああやっていけば良かった、この時期に今度は来ようって旅は自由でもあり、全てをお腹いっぱいに満足できるものではありません。だからこそ旅は面白い。また、旅に出掛けたくなりました。(^_^)/