舞鶴で終戦を迎えた氷川丸は、第二復員省(旧海軍省)に用船され、1945(昭和20)年9月15日より翌年8月15日まで、病院船のまま復員輸送にあたります。 \(^_^)/


救出に向かった先はウェーキ島、クサイ島、ウェワーク、ファウロ、ラバウル、基隆、モロタイ島、メナド、セラム島、ハルマヘラ、サルミ(ニューギニア)、ホーランデア(ニューギニア)、上海などで、輸送した復員兵は7航海で2万人近くに達しました。



復員輸送の任務を終えた氷川丸は1946(昭和21)年8月15日付で第二復員省から船舶運営会所属となり、大陸からの一般邦人の引き揚げ輸送の任務に就きます。 (^^)


氷川丸が輸送した人々は博多/葫蘆島間3航海と、マニラ/名古屋間の1航海合わせて約8,000人。(*^o^)/\(^-^*)


1947(昭和22)年1月12日をもって氷川丸はその任務を終えました。(;´д`)



病院船解散後、氷川丸は商船に戻るため横浜造船所(現・三菱重工業(株))のドックに入り、約1ヶ月かけて改装されました。 ( ̄^ ̄)


病院船の設備を取り外し、船倉は昔の貨客船時代へ復旧し、船体と煙突は一転、真っ黒に塗り替えられました。\(^_^)/


日本はまだGHQから外国航路が許可されていなかったため、氷川丸は船舶運営会の管理の下、1947(昭和22)年3月から大阪・横浜/北海道(室蘭・函館)間を結ぶ定期航路に就航しました。(^∇^)



氷川丸が不定期の外航へ復帰したのは、まだ占領下にあった1949(昭和24)年9月のことです。


その任務はビルマ(現ミャンマー)やタイからの米輸送でした。 (*^o^)/\(^-^*)


1949(昭和24)年4月より、氷川丸は船舶運営会による運営管理がなされていたものの、船舶の保守管理、船員配乗は船主(日本郵船)の責任となり、12月にロイド船級を再取得しました。


翌年4月より、さらに民営化が進み、運航も自主的にできるようになりました。......続く