2023/3/22〜3/24投稿


『松の木坂』と書いた説明板がありました。


古写真によれば、かつては「松ノ木坂御門」という立派な櫓門が建っていたことがわかります。(*^^*)


現在は坂道と石垣を残すのみとなっています。

 
福岡城の石垣はほんとうに立派ですね。


福岡城は初代福岡藩主・黒田長政(くろだながまさ)が慶長(けいちょう)6年(1601)から7年がかりで築城しました。


ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内郭は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、潮見櫓(しおみやぐら)、多聞櫓(たもんやぐら)、花見櫓(はなみやぐら)をはじめとする47もの櫓がありました。


城内の建物や石垣は、火災による焼失や自然災害による崩壊などによってしばしば修復が行われたほか、江戸期を通じて若干の改変がありましたが、築城当初の縄張りに大きな変化はなかったようで、内郭部分41万m2(福岡ドーム6個分)の広さを誇った雄大さを今も感じることができます。


『本丸表御門』と書いてありました。(^o^)


表御門は本瓦葺で切妻造の櫓門でした。


現在は櫓台となった石垣のみが残っています。


階段をのぼったところから振り返ってみました。階段の下が二の丸です。


なお、ここにあった表御門は1918年(大正7年)に陸軍により払い下げられ、市内にある崇福寺の境内に移築されているので、現在も見ることができます。




二の丸から表御門跡を抜けると、いよいよ福岡城の中枢である本丸となります。


表御門は大正7年(1918年)に、黒田家の菩提寺である崇福寺(博多区千代)に移築され、現在まで同寺の山門として使用されています。 


また、本丸の東北方向(鬼門)の角には、祈念櫓があります。


これは鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると万延元年(1860年)3月に起工、同年10月に竣工したものです。


この櫓は、大正7年(1918年)に、陸軍省から払下げられ、北九州市八幡東区の大正寺境内に移築、観音堂として使用されました。


そして昭和58年(1983年)、同寺より福岡城の旧位置に戻された経緯があります。


大正初期の撮影と推定される写真の祈念櫓をみると、下見板張り、白漆喰の壁、軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓となっており、復元された現在の祈念櫓とは著しく外観が異なっており、別の櫓かと思われるほどですが、福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたと考えられています。

 
1、2階の窓格子は白漆喰塗り仕上げで当時の様子をとどめています。(*^^*)


『水の手』って何でしょうかね。(^o^)


昔あった貯水池の場所を『水の手』と呼んでいたみたいです。\(^o^)/

 
『水の手』の跡地は野球場となっており、市民がスポーツに親しんでいますよ。……続く


『感想』

福岡城跡がこんなに見所があるなんて思っていませんでした。歩いてみて散歩するにはちょうどよい段差(階段)がありますし、梅・桜・藤・花菖蒲・牡丹なんかも無料で見れます。季節ごとに楽しめるのはいいですよ。(*^^*)