2022/8/30〜9/1投稿


車まで戻って来ました。次の目的地は『石畳の道』です。(^o^)


まだ7月ですが文豪夏目漱石が歩いた石畳の道を、令和の文豪?『ひろちゃん』が歩きます。


車の充電時間、楽しい散策が出来ました。(^^)


グーグルナビでは『草枕の道』で出ました。約30分の道のりです。(^o^)


道を走っていると、『金栗四三』さんの生誕地だと案内がありました。\(^o^)/


玉名市名誉市民第1号である金栗四三さんは、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場。


さらに、第7回アントワープ大会・第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たしました。


また、日本初となる駅伝「東海道五十三次駅伝」や、今や正月の風物詩となり日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる「箱根駅伝」は四三さんの発案です。


マラソン普及のため、下関から東京間・樺太から東京間・九州一周を踏破し、全国走破を達成しました。生涯に走った距離は25万キロ・地球6周と4分の1です。


オリンピックでの雪辱を誓う金栗さんは、養母幾江や妻の深い理解もあって結婚後も妻を玉名に残し東京でマラソン競技や後進育成に邁進しました。


妻や子どもたちは上小田の家で暮らしながら金栗さんを支える時期が続きますが、お互いの近況を手紙や絵はがきで小まめにやりとりしています。


『そだね〜』カーリングのお姉さん達だ。少し寄り道して、金栗四三のゆかりの地を散策したいと思います。


1924年パリ大会を最後に競技の第一線から退いた後も、東京で女学校に勤めながらマラソンや女子体育の振興に力を注いだ金栗さん。


しかし、長兄の死を契機に39歳で上小田に帰郷、学校対抗のマラソン大会や駅伝競走を企画するなど県内外でマラソン普及に奔走しました。 


その後、幻の東京オリンピック準備のため上京し8年ほど東京で暮らしますが、53歳で再び帰郷。


以後、1983年に92歳で生涯を閉じるまで玉名市上小田で暮らしました。


金栗さんはオリンピック出場後、22歳の時に小田村(現玉名市上小田)の池部家の養子に行くことになり、1914年4月、石貫村(現玉名市石貫)の医師の娘春野スヤさんと結婚。


まずは、金栗四三さんのお墓に行くことにしました。(*^^*)


駐車場から200mくらいの場所にあるみたいです。(^o^)


ちょっと坂道にはなっていましたが、頑張って歩きます。\(^o^)/


もうあちらですよって案内があります。(*^^*)


『金栗四三翁の墓』に着きました。(*^_^*)


1983年11月、92歳で永眠。妻スヤや養母幾江など家族と眠るお墓は、小田の田んぼや小岱山など金栗さんが暮らした風景を見渡せる高台にあります。


お墓の前には、金栗さんの書「体力・気力・努力」と短歌、スヤさんの短歌が刻まれた記念碑が建っています。


『金栗四三翁の墓』を後にし、金栗さん家族がよく訪れた公園に行きたいと思います。(*^^*)


この道をまっすぐ行けばいいみたいです。(^o^)


金栗瀬戸口公園の遊歩道入り口を見つけました。(*^^*)



切り開かれた竹林の中、心地よい風が吹き抜ける遊歩道は、訪れた人も手作りと聞いて驚くほどの仕上がり。


休憩できるベンチも設置されています。(^o^)


平成30年10月、「多くの人が訪れる場所にしたい」と、小田地区金栗四三PR推進部会の一瀬憲司さん(68)と関章さん(68)はじめ5人で遊歩道作りを始めました。


山部田池を覆う枯れている竹林を手作業で切り開き、初日には10メートル分を伐採。


「きっと挫折するだろう」と半信半疑ながらも日々作業を続け、周囲に協力を呼びかけると「小田のために」という一心で住民が集結。


伐採した竹は粉砕して敷き詰め、道を作りました。重機を持つ人も加わり、作業は加速。


「できるかも」日に日にその気持ちが大きくなり、作業の手は止まりませんでした。


地域への愛が生んだ新名所ですね。……続く

『感想』
マラソン金メダリストの金栗さんの故郷だと街を上げてアピールしてありました。実際、ここに来るまで存じ上げませんでした。NHKの大河ドラマも見てなかったから、見とけばよかったなとちょい思いました。(*^^*)