2022/9/5〜9/7投稿


明治24年(1891年)8人兄弟の7番目に生まれた四三は、長兄を中心とする家族の温かい教育のもと勉強・スポーツに励み、東京高等師範学校(現筑波大学)で生涯の師となる嘉納治五郎に出会い、日本で最初のオリンピック選手になります。


しかし、オリンピックに3度出場するも良い結果を残せなかった四三は、その悔しさをバネに日本スポーツ界を発展させるため、マラソンシューズの開発や箱根駅伝の創設、女子体育の振興などさまざまな試みを行います。 


生涯走り続けた距離は約25万キロ。(^o^)


その生涯は、「体力・氣力・努力」の言葉と、晩年の穏やかな表情に表れています。


四三のマラソン人生の基礎を築いたスタート地点。それが、この生家なのです。 


生家の敷地の端には、四三がマラソンの基礎になったと語った高等小学校時代の片道6kmの通学路が通り、「金栗四三ロード出発点」とも呼ばれています。


自宅の玄関の土間の横に、家族が「学校部屋」と呼ぶ四三専用の部屋があり、二畳敷きぐらいの小さい板張りで、表の格子戸へ向けて机を置き、四三は声を張り上げて読み方をしたそうです。


この部屋は四三が高等小学校を卒業するまでの六年間の思い出を残しています。


生家の隣には『金栗四三資料館』がありました。(*^^*) 


自然豊かな山間に佇み、広い土間と茅葺きの高い屋根が特徴的な造りの金栗生家は、築200年を超えた今でも、当時の趣を残したままふるさとの和水町に現存しています。


おや?小さなイチョウの木がありましたよ。


まだ植えられたばかりですね。10年後くらいに見に来たいです。



写真展示の数々。いずれもここでしか見ることのできないものです。


『自強不息』って書いてあるみたいですね。


日本初のオリンピック参加となったこの大会には、陸上短距離の三島弥彦、マラソンの金栗四三の2名が出場しました。

当時の文部省は「官立学校の学生が欧米のスポーツショーに出るのはけしからん」と、渡航費用1800円(現在の貨幣価値にすると500万円ほど)の補助を拒んだそう。


当時の日本でオリンピックをどう取られていたかが分かるエピソードだと思います。


金栗四三さんが直筆で書かれた『韋駄天』です。(*^^*)


南方の増長天に属する八将軍の一。非常な速さで駆け、魔鬼を排除するとされるところから、足の速いことや人をもいうそうな。(*^^*)


金栗四三の座右の銘、「体力、気力、努力」。


ドラマ『陸王』の足袋靴みたいですね。(*^^*)

金栗四三さんが有名になったのは、大河ドラマ『いだてん〜東京オリンピック噺〜』て取り上げられたのが大きいですよね。(*^^*)


この金栗四三の生家及び資料館は、マラソンの宗兄弟や2019年にプロランナーになられた川内優輝さんも来られる、『マラソンの聖地』とも言われているそうですよ。


寄り道をしてしまいましたが、気を取り直して、『草枕の道』を目指しました。


さっき曲った看板の道に戻りました。(^o^)


車はナビ通り順調に進みました。(^o^)


綺麗な山並みが広がっていますね。(*^^*)


玉名広域農道の『天皇皇后両陛下展望地』に着きました。(^o^)


玉名広域農道は、熊本市の金峰山の麓から玉名市を通り、 福岡県境の荒尾市迄結ぶ2車線の道路です。 


南側半分はみかん畑の山の中腹を走り抜く眺望の良い道路で、 眼下に有明海、その対岸に雲仙普賢岳を望むことができます。


眺望の良さから、所々に展望所が有り、 特にサンセットドライブ/ツーリングで訪れる人が多いようです。


特に人気がある展望所は、天皇皇后両陛下展望地です。 


正確には、両陛下がまだ皇太子/皇太子妃の頃にご訪問されており、 石碑にもそう記載されています。


この展望所からは、玉名平野(玉名市、長洲町、荒尾市)と、 海の向こうに島原半島の夜景を望むことができます。


こんな夜景が見れるそうですよ。……続く

『感想』
金栗さんの生家を見て、玉名広域農道の“天皇皇后両陛下展望地”まで来ました。 季節はちょうど夏に入った頃だったので、季節的にもドライブ日和でした。もう少し天気が良ければいい絵が撮れたのになあ。(*^^*)