仙台にある『名取市震災復興伝承館』に初めて来ました。(*^^*)


そこで『閖上保育所』の事を知りました。(^^)


この名取市は人口5000人の小さな町ですが、震災の津波で450人の尊い命が亡くなりました。


震災前年まで、閖上保育所の避難マニュアルでは、50メートルほど先の3階建て漁民アパートに、徒歩で逃げることになっていたそう。


2010年5月、職員らは地域の防災訓練に参加。町内会長から「昭和三陸地震(1933年)で、閖上も3メートルの津波が来た」と聞かされ、皆不安になった。保育所の毎月の打ち合わせで、マニュアルを見直してゆくことにしたそうです。(*^^*)


検討を重ねた結果、避難先を漁民アパートから運動会などで子どもたちがなじみがある小学校に変更。距離があり、車を使うしかない。職員は、渋滞を避ける裏道ルートを各自考えた。(*^^*)


そうやって避難マニュアルを改訂し終わったのは2月。直後の3月11日に大震災は来た。(^^)


2時55分。三つの事を簡潔に告げた。迷いはなかった。 

1 逃げます。 
2 車を持ってきてください。 
3 (閖上)小学校で会いましょう


佐竹さんは子どもたちの上着をかき集め、パジャマの上から着させた。職員5人が駐車場から自家用車をつけ、クラスごとに乗り込む。1台に大人2人と子ども数人、大きなバンには十数人。ひざの上に別の子が乗り、その前にも立つ。


ぎゅうぎゅう詰めの車を駐在所でとがめられたらどうする? 

「あとで所長先生が責任をとる、って言いなさい」。

津波が来なかったら笑い話にすればいい。

 「行って!」 

出発を見届けた佐竹さんは、児童の個人情報ファイルを、ゆがんだ棚からなんとか取り出した。

迎えに来る保護者のため、「小学校にいます」と油性ペンで書いた紙を貼り、1・5キロ内陸の閖上小へ。


3時20分、全員が集まった。小学校には住民も来ていたが、緊迫感はまだない。3階建て校舎の屋上に先んじて登った。


その30分後、この海から8mを超える大津波。あらゆる建物が津波にさらわれていった。 


今は更地になっていますが、当時ここに保育所がありました。(*^^*)


震災から8年、新しくなった『閖上保育所』には子供たちの笑い声が響く。

震災で亡くなった尊い命に哀悼の意を表すと共に、日頃の備えの大切さを改めて学ぶ旅となりました。


今回の特別ブログは『閖上保育所の奇跡』でした。特に東日本大震災からの復興状況を見てみたかったので、今回は仙台空港に近い名取市を訪れました。震災の遺構を見ると、涙を流さずにはいられませんでしたね。また仙台にゆっくり来たいと思います。引き続き8000投稿に向けて頑張りますので、ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します。      ひろあき