鉄道が到着すると、観光坑道です。\(^o^)/


旧火薬庫を利用して作られた観光坑道は、長さが333mあります。


はじめは、江戸時代の採掘の様子を再現したゾーンです。


リアルに再現された人形や採掘現場から、当時の人たちが苦労して採掘していた様子を知ることができます。


鉱山の発見は、大坂屋久左衛門経営の伊予国立川銅山で働いていた切場長兵衛は立川銅山に隣接する足谷山(別子)に銅鉱が連鎖しているのを覚り、備中の吉岡鉱山に住友の田向重右衛門(たむけじゅうえもん)を訪ね、見込みを告知した。


田向は部下とともに長兵衛を案内人に、大坂屋に気づかれないように天満村から険しい山中を踏み越えて足谷山に入り、大鉱脈が横たわることを確認した。


 1690年(元禄3年)秋 - 田向重右衛門一行が別子銅山を検分。 


1691年(元禄4年)4月、住友家は開坑を願い出たが、その条件は下記のとおり。
 ①元禄4年6月から9年5月まで満5箇年請負
② 運上は銅1000貫につき130貫、代金は銅100貫目につき銀500目
 ③炭窯運上は10口につき1箇年銀30枚、ただし毎月上納、
④ 銅山付近の材木は残らず銅山付、
⑤ 奥山大難所の林木で年々枯れ捨てる分は銅山用材として下付 など であった。


「1」は成績が不良であった場合は請負を辞退することを保留したもので、永代請負となったのは1702年(元禄15年)3月である。


これよりさき同年1月、住友友芳は勘定奉行荻原重秀に呼び出され、成績不良で1698年(元禄11年)に請負を辞退した吉岡鉱山の経営を高圧的に命じられた。


これは江戸幕府の貨幣政策で丁銅不足に悩んでいたためであり、友芳は交換条件として、下記の要望を提出した。 

①別子銅山と吉岡銅山に対して鉱業助成金10000両を貸し下げ 
②西国筋天領のうちから吉岡別子両従業員食糧用に米6000石払い下げ、
③ただし10ヶ月延買 別子銅山永代請負 など


この条件を飲んで、1691年から住友の開坑が始まります。……続く