希望、絶望、政治などについて考えてみましょう | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

希望、絶望、政治などについて考えてみましょう

秘書です。

希望、絶望、政治、そしてファシズムについて考えてみましょう。



東大・玄田有史教授 「希望は個人が掴むもの、希望を謳う政治家は要注意」
週刊朝日 5月12日(土)7時10分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120512-00000002-sasahi-pol

 財政赤字や高い自殺率など不安要素があふれている現代でよく謳われる「希望」。とくに東日本大震災が起きてから、その言葉は新聞でもよく使われてきた。しかし、政治家がいう「希望」には気をつけるべきと、『希望のつくり方』の著者で東京大学社会科学研究所教授の玄田有史氏は警告する。

*  *  *
 政治家は希望という言葉が好きだ。「希望と安心の国づくり」なんてキャッチコピーをよく使う。しかし、われわれが「この政治家ならなんとかしてくれる」とか、「この政治家を信じれば希望は訪れる」とかいった考えを持つのは非常に怖い。

 なぜなら希望は与えられるものではなく、自分たちの手で見つけるものだから。挫折したり、無駄な経験をする紆余曲折の中で、希望を紡いでいく物語を、本来は一人ひとりが持っている。挫折や無駄を乗り越えた先にこそ、希望はある。

 改めて言うが、誰かに希望を与えてもらうのを望むような風潮に、私は怖さを感じている。混沌の時代の政治には、ヒーロー待望論が出てくるものだ。「20世紀最大の希望の政治家は誰か」と問われれば、私は間違いなくアドルフ・ヒトラーと答えるだろう。彼のように「希望と安心の国づくり」を謳う政治家は要注意だ。

※週刊朝日 2012年5月18日号

→玄田先生も生活・地域ワーキング・グループ副主査として参加された「日本21世紀ビジョン」専門調査会。小泉政権期の中長期ビジョン策定のための委員会でした。そこでは希望について、以下のようにとりあげられていました。

2005年4月の「生活・地域ワーキング・グループ報告書-政策の選択と集中で成熟した国民生活と多様な地域社会を目指す-」では、「世帯主年間収入のジニ係数は、高齢化進展に伴い、0.3 0 (1 9 9 9年)から0. 32程度( 2 0 2 5年)に高まる(格差が拡大する)中で、働く意欲の低下した低所得者がその社会階層に固定化しないよう、将来に対する希望の格差が拡大しない社会を形成する。そのため、労働市場における雇用機会の均等、同一労働・同一賃金の原則確保とともに、個人の人間力・職業能力の向上、更に社会的な共(つながり)を組み合わせることにより、格差が生じてもそこから脱却することが容易であるやり直しが可能な社会を目指す。」とありました。

そして日本21世紀ビジョン」に関する専門調査会の2005年4月の最終報告書『「日本21世紀ビジョン」専門調査会報告書 新しい躍動の時代-深まるつながり・ひろがる機会-』では、「経済が停滞し縮小する中で、いったん不安定な低賃金雇用に陥ると、そこから脱出することが難しくなる。再挑戦する機会が乏しく、格差が固定化される。そのため、意欲の喪失や社会の分断が生じ、他人に対する無関心が増したり社会のルールが軽視される。社会に庇護されたまま努力を放棄した人々の割合が増える。」、「引きこもりやニートなど、社会的なつながりを欠き孤立した人々が増加する。将来に希望が持てる人と『努力しても報われない」と考え将来に希望が持てない人に二層化する『希望格差社会』が深刻化する。」との認識のもと、「希望格差社会」が深刻化することを避けるために採るべき具体的行動として、「学校教育において社会参画への関心と意欲を高めるような指導を充実する」ことや「能力開発に対しては、時間的支援はもとより、税や奨学金等の経済的側面についてもライフステージなど、個人の状況に対応した支援を充実する」ことを提言しました。

→それでは、希望とは何でしょうか?

希望とは、努力が報われることのようです。同じく「日本21世紀ビジョン」専門調査会に参加された山田昌弘先生は、「希望とは、心が未来に向かい、現在の行動とつながっている時に感じる感情」である と定義しています(山田昌弘(2004)『希望格差社会-「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』筑摩書房、p.194.)また、山田生成はR・ネッセの「希望という感情は努力が報われると感じる時に生じ、努力してもしなくても同じと感じれば絶望が生じる。希望と絶望は努力の始まりや終わりではなく長期の努力の途中に体験する」という言葉もよく引用されます。ネッセの原文は以下のようなものです。

“Events that indicate that our efforts will succeed arouse hope. Events that suggest that our efforts are futile foster despair. We experience hope and despair, not at the beginning or end, but in the midst of our long-term efforts.”(Nesse, R.[1999] “The Evolution of Hope and Despair.” Social Research (66),2,Summer 1999,p.429. )

→今の日本は、努力してもしなくても同じという絶望にあるのかもしれません。

→そして、絶望こそがファシズムの温床といえるでしょう。若き日のピーター・ドラッカーは、ナチスを迎え入れたドイツ国民は「旧秩序の崩壊と新秩序の欠落による純なる絶望」の中にあると指摘しました。


「この数年、この経済発展への拒絶反応が無制限に拡がりつつある。もはや、経済発展の神様に対してはお愛想さえ聞かれない。その代わりに、恐慌に対する安定、失業に対する安定、経済発展に対する安定など、安定が普通かつ最高の目標となっている。経済発展が安定を脅かすのであれば経済発展のほうを捨てる。」
「大衆は、経済的自由が恵まれざる者の存在をなくすことができなかったために、それを社会的に有益なものと考えることをやめた。失業の脅威、恐慌の危険、経済的犠牲を遠ざけてくれるのであれば、まさに経済的自由の放棄のほうが受け入れられ、さらには歓迎されるようになった。」

何かいまの日本と似てますね!そしてどうなったのか?

「旧
秩序は有効性と現実性を失った。旧秩序の世界は不合理な魔物の住むところとなった。しかし新たな信条の基盤となり、かつ新たな目的のために社会を組織するうえで必要となる新たな形態と制度の基盤となるべき秩序は、現れていない。旧秩序の実体は、大衆にとって耐えがたい混沌をもたらすがゆえに、もはや維持できない。しかし、旧秩序の形態は、それを喪失するならば大衆にとって耐えがたい社会的、経済的混沌をもたらすがゆえに、放棄できない。実に、新たな実体をもたらし、新たな合理を与え、同時に古い形態の維持を可能にしてくれる脱出口こそ、絶望した大衆の要求である。事実、この要求はファシズム全体主義が正面から応えようとするものである。」

こうしたドイツ国民の「旧秩序の崩壊と新秩序の欠落による純なる絶望」に対して20世紀前半のファシズムが提示したものは、「組織」でした。

(以上、P・ドラッカー(1939)『「経済人」の終わり(ドラッカー名著集9)』(訳:上田淳生、2007)The End of Economic Man: The Origins of Totalitarianism, Transaction Pub; Reprint版 (1995) 、ダイヤモンド社より)

そして、農村共同体から排除された人々は1930年代と40年代に軍・軍需産業という近代的組織に包摂された!日本でも総力戦体制のもとで人々は近代的組織に包摂され、戦後の高度経済成長期には企業組織に包摂された!日本では、全ての世代が失業率1%台という至福の時代!

しかし、今、企業組織は人々を、とくに若者を排除しはじめた。

1930年代にファシズムが提示した組織という解決策はもはやない。ですから、あのファシズムがもう一度台頭することはないでしょう。

では、どこに人々を包摂していくのか?まだ、誰も答えを出していません。

正規雇用・終身雇用で中間層の分厚い社会を復活させるといいながら経済成長を否定する民主党政権は全くのナンセンスですね。それなら国民総公務員化をいうべきでしょう。経済成長にも冷笑的、若者の公務員就職口もカット!若者には増税、それでどうやって中間層を分厚くするのか?

もっと、根本的に考えましょう。

包摂されるとは、公正な基準をもとに自分の努力を扱ってくれるところに所属するということでしょう。そこに所属して努力が認められることが現代の希望。

社会のルールについての合意形成は政治の役割です。いまは個々人が希望を持つためには社会のルールを転換しなければならない時代なのかもしれません。

キーワードとしてのコミュニティシップ、ネットワーク、アドホクラシ―・・・


そして、3.11以後、人々は人に役立つことをすると馬力が出る、生きようとする力がわき上がってくることを体験しました。馬力すなわち夢。このことをどう日々の生活の中で具体化するかが他者評価基準にかかわりそこに希望がかかわっている。
国民意識の動向は、世の中の役に立つことをしたい、ということにエネルギーが沸き起こっているように思います。世の中の役に立つことをして、結果的に、生計が成りたつというシステムをどうつくりあげるのか?その社会ルールの形成は政治の役割。

自分の利益のために生きていれば市場メカニズムによっておのずから社会の利益になる、という考え方が根本的に変える必要があるのかもしれない。社会の利益に役立とうとすれば結果的に生計が成り立つという社会に変わることができるのか。成長パラダイムの否定というのはそこまで発展することになるでしょう。

例えば、本当に必要とされている分野で仕事をしようとすれば、生計が成り立たないという矛盾。これはシステムの欠陥でしょう。

介護を必要としている人がいる一方で、職を求めている人がいる。両方がマッチングできないことは単に財源が足りないというだけでいいのか?貨幣というシステムがサービスを仲介する機能を失っているのではないか?

そこまで根本的に考えてみる必要があるのかもしれません。そこから今話題のベーシックインカムなどが議論の対象となるのでしょう。