「土光臨調(第二臨調)の教訓」←増税推進勢力が土光臨調をモデルにする時代ですが、真の教訓は? | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

「土光臨調(第二臨調)の教訓」←増税推進勢力が土光臨調をモデルにする時代ですが、真の教訓は?

秘書です。
増税内閣が、なんで、「増税なき財政再建」の土光臨調をモデルにするのでしょう?


“土光臨調”モデルに行革懇談会
4月30日 4時17分 NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120430/k10014808681000.html

岡田副総理は、消費税率の引き上げに対する国民の理解を得るためには行政改革の徹底が必要だとして、京セラの名誉会長・稲盛和夫氏ら民間の有識者をメンバーとする「行政改革に関する懇談会」を設置し、大型連休明けに初会合を開くことにしています。

行政改革を担当する岡田副総理は、消費税率の引き上げに対する国民の理解を得るためには行政改革の徹底が必要だとして、昭和50年代に国鉄の分割・民営化などで実績を挙げた第二次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」をモデルとする会議の設置に向けて調整を進めてきました。
そして、これまでに京セラの名誉会長で日本航空の名誉会長も務める稲盛和夫氏や、JR東海会長の葛西敬之氏、前の総務大臣で慶応義塾大学教授の片山善博氏ら、10人のメンバーが固まりました。懇談会は、大型連休明けに初会合を開くことにしており、今後、国家公務員の人件費削減や国が所有する資産の売却など、行政改革に関わる幅広いテーマについて意見が交わされる見通しです。


→土光臨調のことは、生まれる前のことだしな、よく分からないな、という方のために、GWのひまつぶしとしてご参考にお目とおしください。(敬称及び引用を省略いたします、引用元については下記参考文献参照)


『土光臨調(第二臨調)の教訓』

(1)第一臨調失敗の教訓

鈴木善幸政権期から中曽根政権期にかけての第二臨調の正式名称は「臨時行政調査会」である。同名の調査会が1961年から1964年にかけて設置されていたことから、60年代の調査会は「第一臨調」、80年代の調査会は「第二臨調」と称される。第一臨調は民間各界より、技術革新により生産性が向上してダイナミックに企業経営を展開しているのに対して官庁は能率が低く、意思決定も不明確で遅い、という批判が高まったことをうけてのものである。そして、米国のフーバー委員会(1947-1949年、1953-1955年)にならい、1961年2月に佐藤喜一郎(三井銀行会長)を会長とする7名の委員、21名の専門委員、70名の調査員、40名の事務局という、総勢138名の「臨時行政調査会」が設置された。その答申は、1964年に出されたが「理想に走りすぎていた面があった」ために、内閣府、内閣補佐官、総務庁設置などの抜本的な案は、政府においてはいずれも実施困難と「棚上げ」された 。
第二臨調に参画した加藤寛は、第一臨調のことを「行革は単なる少数の先覚者による言葉の遊びであった」と述べている 。
中曽根は、第二臨調発足当時、「どうして第一臨調が目的をなし得なかったか」について検討し、ⅰ)具体案がなかった、ⅱ)土光さんのような象徴的な人もいなかったし、高度成長によって財政が豊かになってきたため、予算削減など考えること自体、時代の潮流にあわなかったために追い風がなかったと総括し、以下のような第一臨調の教訓を得た 。
それは、ⅰ)「やればできる、汗を流せばできるという答申」にしなければいけないこと、ⅱ)「官僚は説得すべきで敵に回してはいけない」こと、である。中曽根によるこの2つの第一臨調失敗の教訓をもとに第二臨調は発足した。

(2)大蔵省主計局分離構想「封印」

大蔵省は鈴木政権で第二臨調が設立された当初から「抵抗」していたといわれる。その理由は、大蔵省は「予算編成権を横取りされるのではないかという強迫観念にとりつかれていた」からである 。かつて、第一臨調は大蔵省主計局を分離して内閣直属の「予算局」とすることを打ち出したことが、大蔵省の警戒感をまねいたといわれる 。これに対して、中曽根は予算編成権問題について、「私は、役人とは喧嘩するなと、常々言ってきました。このケースもそうでした」と回想しているように 、第二臨調では大蔵省主計局分離構想は「封印」されることになったのである。
この大蔵省主計局分離構想の「封印」という制約を受け入れた結果、大蔵省は積極的に第二臨調の予算編成作業に協力することになる。第二臨調発足当初、官界では、「官僚たちの作文を答申として採用」する従来の諮問機関と同じような存在だろうと考えていたが、大蔵省は異なっていたとされる。財界が委員の3分の1を占めたことに着目し、「超権威になると予感」したという。大蔵省は第二臨調を「超権威」に押し上げる過程で自らの主張を実現していく戦略に転換し 、第二臨調が82年度予算編成に関わることになって以来、大蔵省は第二臨調の審議に積極的に参加して、その主導権を握る方針に出た 。当時の模様を、加藤寛は「いよいよ第一特別部会が予算問題を取り上げるということになりましたので大蔵省も急に慌てまして、そういうことをやるんなら参加させろというわけです。・・・どうせやるんなら情報をだすからそれに従って議論してくれといってきました」と述べている 。
この大蔵省の協力により、第二臨調が82年度予算編成に携わり成果をあげることができたことは、「新しいアリーナ」である第二臨調の権威を更に高め、「決定権限における超越性」を高める効果があったと考えられる。

(3)第二臨調が活用した旧海軍人脈

 第二臨調は、80年代当時存在していた旧海軍人脈を活用した※。
保守傍流の道を歩み、官界人脈は多くないとされた中曽根は「軍で同じ釜の飯を食った」という共同体意識を活用した。つまり、戦後官界の省庁縦割り的な閉鎖的共同体意識を超えるために、80年代に残っていた戦時中の旧軍の共同体意識を活用したのである。
中曽根は「当時は各省とも事務次官や官房長に、海軍時代の仲間がかなりいたのです。海軍で、同じ釜の飯を食べたことが効きました。官邸から直接、電話を入れると、たいてい協力を惜しみませんでした」と語る 。この旧海軍人脈は「短現」(短期現役補修科学生制度)といわれる海軍の制度により軍役についた人々の人脈である。戦時中、海軍の「短期現役補修科学生制度」の試験に大蔵・内務官僚の多くが受けたといわれる。1980年には「短現」12期が大蔵、通産、文部、厚生、運輸、法務の6省の事務次官を占めていたとされる。中曽根は「短現」の6期にあたり、第二臨調には9人の「短現」が参加している 。
第二臨調は、土光会長ら9人の委員、6人の顧問、21人の専門委員で構成されたが、部会メンバーとしての作業に参加した専門委員・参与は60名、その3分の1が官僚OB、16名が事務次官経験者であった 。この事務次官経験者の第二臨調への参加には、「役人の古手を入れてはいけない」という経済界の声が非常に強く、各省の事務次官経験者を委員、専門委員、参与に入れることには相当強い批判があったとされる 。しかし、事務次官経験者の起用については、旧海軍人脈の活用という側面もあったと考えられる。


※戦時中、海軍の「短期現役補修科学生制度」(短現)により多くの大蔵・内務官僚が軍役についた。中曽根は「短現」の6期にあたる。短現出身者リストとしては、井畑憲次・野間弘編(1968)『海軍主計科士官物語<短現総覧>』浴思出版会参照。なお、臨調・行革審における短現出身者は以下の通り。臨調・行革審の肩書は、臨調・行革審OB会(1987)『臨調 行革審-行政改革2000日の記録』財団法人行政管理研究センターによる。カッコ内の肩書は1968年当時のもの。1期=谷村裕・臨調委員・行革審委員(大蔵事務次官)、2期=堀秀夫・臨調参与(総理府総務副長官)、6期=内海倫・臨調参与(警察庁刑事局長)、8期=赤沢璋一・臨調専門委員・行革審参与(通産省重工業局次長)、9期=梅本純正・臨調専門委員・行革審顧問(厚生省保険局長)、大河原良雄・行革審顧問(外務省大臣官房人事課長)、知野虎雄・臨調顧問(衆議院事務総長)、10期=渥美健夫・行革審参与(鹿島建設取締役社長)、加藤匡夫・行革審参与(外務省経済局長)、川島広守・臨調参与・行革審参与(警察庁警備局長)、大津留温・臨調専門委員(建設省計画局参事官)、11期=秋富公正・臨調参与(内閣参事官内閣総理大臣官房人事課長)、翁久次郎・行革審参与(厚生省大臣官房人事課長)、首藤堯・臨調参与・行革審参与(自治省財務局財政課長)、12期=長岡実・行革審参与(大蔵省主計局主計官)、井内慶治郎・臨調参与・行革審参与(文部省大臣官房会計課長)、濃野滋・行革審参与(外務省-役職の記述なし)


(4)増税なき財政再建

第二臨調の中核メンバーだった瀬島龍三は、「政府の人たち、各政党の人たち、そして国民にも、行革を進める上で筋の通った改革の論理が理解されないとできない」のであり「ただ膨れているから削る」というものではなく「論理を確立することが重要」であると考えた。瀬島によれば、それは「国際国家として歩む」ということと「活力ある福祉社会の建設」の2つであり、この2点を日本国家の21世紀に向かう大方向、目的であるとして行政改革の根本理念とした 。
加藤寛は第二臨調が成功したことについて、まず、機能不全を社会メンバーが認め、次に「理念の修正」を徐々に行うこと、その上で「組織の修正」に入る、としている。加藤は「組織の修正」は「理念の修正」の枠内でしかできない、としている 。
「機能不全を社会メンバーが認める」という点では、加藤は「行革はグライダーであり、世論という風がなければ飛ぶことはできない」として、自らが積極的に広報マンとして活躍した。加藤は第二臨調の部会長を務めながら、まだ部会で決まっていない国鉄分割・民営化論をテレビで語るなどして、積極的に世論の盛り上げを図った 。
また、「理念の修正」について加藤は、第二臨調の役割について「大蔵省あたりは財政支出をただ削減すればいいと思っていたかもしれないが、しかしそんなことは枝葉末節にすぎない」のであり、第二臨調は「いわゆる財政のつじつま合わせ」ではなく、ⅰ)国際化、ⅱ)情報化社会への発展、ⅲ)中央と地方の関係のつくりあげ、の3つが大きな目的であり、その焦点は「官民のあるべき関係をいかにつくりあげるか」にあるとした 。
しかし、これらの「理念」の段階では、まだ、「総論賛成・各論反対」の余地が残る。第二臨調の最も重要な問題解決原則は、土光敏夫が会長就任の際に鈴木首相に出した条件の一つである「増税なき財政再建」である
この「増税なき財政再建」の意味について、第二臨調事務局メンバーだった田中一昭は、当初(第1次答申)は、「行政改革を進めるための突破口」=「戦術」としての意味が強かったが、その後(第3次答申以降)は、「増税なき」とは租税負担率の上昇をもたらすような新たな措置をとらないこととし、当面この考え方で財政再建を進めるとともに、国民負担率を50%よりかなり低く抑えようという「戦略」に変わったとする 。このように、時期によって、「増税なき財政再建」の意味合いは変化していく。
中曽根ブレーンであり、臨調メンバーでもあった中川幸次は、  「増税なき」というのは「糧道を断つ」ことで制度や施策の見直しを不可欠として、本格的な行政改革に追い込むためのものだったと語る 。大嶽秀夫によれば、行政改革は「増税のための国民の理解を得る目的」で行うものであり、87年の税制改革で本来の増税路線に回帰したということになる 。
このように、「行政改革のための財政再建」か「財政再建のための行政改革」かについての認識の差を内包しつつも、第二臨調と大蔵省は「行財政改革」というスローガンのもとに具体的協力関係に入る。第二臨調設置は中曽根行管庁長官のイニシアチブで設置されたが、鈴木首相はこの第二臨調を財政再建に使おうとし、81年1月の所信表明演説において「行財政改革」というキーワードを用いた。
鈴木首相は第二臨調の初会合(81年3月16日)において、「とりわけ、財政再建という見地から、行財政の建て直しを図ることは現下の急務」であることから、「歳出の削減、政府機構の簡素化、行政の減量化に重点を置いた改革を早急に進め」るための当面の要請にこたえる具体的改革案を夏までに提出するよう要請した。大嶽秀夫が指摘するように、行政改革が予算編成とからむことによって、「意図せずして、行政の改革から国家の改革へと変質が行われた」のである 。
そして、行政機構改革が「国家の改革」に変質すると、それは財政の論理になっていく。後藤田はこの第二臨調のメカニズムについて以下のように語る。第二臨調の特徴は「本来政治がやるべき行政の守備範囲の見直し」であり、そこでは政策にまで切り込み、行政の守備範囲や見直しを行い、経費の削減をしていく。そして、行政改革の結果、「経費」がどのように減ったかを行革のメリットとみる 。ここで、政治や政策に踏み込む行政改革のメリットを「経費」としている点が重要である。「国家の改革」であるはずの行政改革の結果が「経費」という形で数値化されることで、大蔵省の協力関係に入っていくことになる。

(5)誰が事務局を掌握しているか

①官僚の協力の理由

 第二臨調の委員及び専門委員は「非常勤」である。このため、第二臨調の調査事務その他の事務を処理する「常勤」の事務局が重要になる。事務局長は行政管理庁事務次官であり、事務局員は各省庁の出向職員と民間人から起用される若干の職員により構成された 。この第二臨調の事務局について、中曽根は「行管庁が中心になって事務局をつくりました。行革をやろうと思ってつくった役所ですから、それなりの結果が出ています」と評価している 。また、加藤寛も「事務局にはすばらしい人がいました。田中一昭という臨調の役人で、私のやっていることを応援してくれたのです。これでいいんだ、こうしなくては改革はできないんだと言って、バックアップしてくれた。私は役人の中にもこういう人がいたのだと、この時初めて知りました」と語る 。また、行政管理庁の官僚以外も、各省庁から事務局への出向者も、臨調の主張に筋が通っていれば積極的に賛同したといわれる 。
こうした官僚の臨調に対する協力について、瀬島龍三は「あの頃の臨調には、役人も民間人もみんなで国家の将来の展望を見出そうという熱意がありました」 と回想する。
しかし、そうした「国家の将来の展望を見出そうという熱意」が80年代の一般的官僚の特徴だったとするならば、教育改革や税制改革の失敗はどう説明するのか。文部官僚・大蔵官僚は「国家の将来の展望を見出そうという熱意」が欠けていたとのか。
第二臨調に対して官僚が協力するようになった最も大きな要因は、82年の段階で、中曽根首相から臨調に対して行革対象を限定してほしいとの意向が伝えられ、臨調第四部会は3公社の改革、とくに国鉄改革に焦点を絞っていったことにある 。この中曽根首相の意向に従い、第二臨調の改革は、各省庁の「本体」ではなく、本体以外の「公社」(国鉄、電電公社)に的が絞られた。例えば、当時の国鉄は、運輸省に対して優越意識を持つ独立的なエリート組織だった。「運輸省と国鉄の間に楔」を打ち込もうとした第二臨調の戦略に対して、運輸省が協力することはむしろ省益にかなう行為だったのである 。

②「事務局」の掌握―情報における優位

 第二臨調において、加藤寛ら非常勤の民間人が官僚中心に構成される事務局に対して主導権を握ることが理由は、「情報における優位」を確保できた結果であると考えられる。
 アンソニー・ダウンズは、「理性」「情況に関する知識」「情報」について以下のように定義している 。
「理性」とは、論理的思考をそのプロセスとし、「因果分析をその原理とする才能」である。
「情況に関する知識」とは、ある種の作業分野における基本的な因果構造を明らかにするものであり、理性よりも特殊であり、教育により多かれ少なかれ獲得され、専門化の対象になりうる
「情報」とは、「情況に関する知識」の対象となるような変数についての最新の資料を提供することである。
このうち、一般に、「情況に関する知識」と「情報」において、官僚は民間人専門家に対して優位に立つ。官界では、政策の中身を「サブ(サブスタンス)」、政策決定プロセスを「ロジ(ロジスティック)」と呼び、それぞれの担当者をつける。
まず、「サブ」について加藤寛が事務局に対して優位に立てた理由は、ⅰ)事務局を構成する行管庁を中心とする官僚にとって国鉄が所管外である、ⅱ)国鉄当局が第二臨調に非協力だったために正規ルートでは情報を入手できない、ⅲ)国鉄分割・民営化については過去にも外国にも例がない、ⅳ)「第四部会幹部」に対して国鉄内部の改革派から貴重な資料や内部情報が届けられた、などにある 。「第四部会幹部」に対して国鉄内部の「情況に関する知識」や「情報」がもたらされることで、第四部会では「事務局」主導ではなく「幹部」主導で国鉄改革案が策定されていくことになった。
また、「ロジ」における「情況に関する知識」「情報」も重要である。本論の冒頭に「いくら理想的な青写真を描いたとしても、それを実現するためのプロセスまで含めて戦略的に考えなければ政策論にはならない」との竹中平蔵の言葉を引用したが、このことは「ロジ」の「情況に関する知識」「情報」の重要性を物語っている。
この点、第二臨調における加藤寛は、官界の「情況に関する知識」については臨調メンバーの河合三良ら官僚OBから、政界については瀬島龍三らから、「既存の行政・政治システムを動かすコツを短期間で修得した」のである 。
「情況に関する知識」を習得した加藤は、さらに、政界との調整を自ら行う過程で、「『情況に関する知識』の対象となるような変数についての最新の資料」としての「情報」を入手していく。「調整」とはそれ自体がリアルタイムで外部情報を収集する作業であり、相互学習なのである。
そこで重要な機能を果たしたのが「裏臨調」や「裏会議」である。
「裏臨調」は、鈴木政権で行政管理庁長官だった中曽根自身が開催している。
中曽根によれば、毎週金曜日の夜8時、加藤寛、瀬島龍三、橋本龍太郎(自民党行財政調査会長)、堀内光雄(第一次鈴木内閣のもとの行管庁政務次官)、中村靖(第二次鈴木内閣のもとの行管庁政務次官)、加地夏雄(行管庁事務次官)というメンバーで、「現実問題として、どのように臨調を動かしていくか」という戦略を練り上げた。この中曽根主催の「裏臨調」は30回前後開催されたという 。
第二臨調全体は瀬島龍三が、国鉄改革を担当する第四部会の「裏会議」は加藤寛が担当し 、加藤は自らの事務所を作戦本部にする 。加藤がリードする「裏会議」は、「部会の終った後など、多いときは週2回以上、1回に3時間ないし4時間にわたって加藤部会長、住田部会長代理 、岩村部会長代理、山同専門委員及び事務局で議論を深めつつ戦略を練った」とされる 。
 この三田の加藤寛事務所での作戦会議の模様を、第四部会に所属していた屋山太郎は以下のように語る。
 「私などは、こういうことをやろうよ、こういう方針でいこうなどと、三田の加藤先生の事務所で午前三時頃まで作戦会議をしましたが、そういうときの作戦は、もうすでに加藤先生や瀬島さん、そのほかの部会長の中でだいたい決まっていて、自民党の田中さんなどからもOKを取って、反対が出ない。もちろん土光さんや中曽根さんからもOKをとってある。そういう段階で指令が降りてくるわけです」
第四部会の「裏会議」メンバーの瀬島委員、加藤寛部会長、住田部会長代理、佐々木事務局次長は82年3月以降、自民党政調の行財政調査会長の橋本龍太郎会長、加藤六月同会長代理(交通部会長)、さらには運輸族議員の三塚、田村、細田、小此木各議員と累次の会合をもった。臨調側は賛成でなくとも臨調潰しには回らないよう自民党議員に要請し、自民党の動きを封ずることに成功している 。
電電民営化も同じ「裏会議」メンバーで調整している。しかし、電電民営化については与党内で合意なしに第二臨調での答申に踏み切り、これが結果的に政府の電電改革が臨調答申通りにならなかった原因といわれる 。国鉄改革と電電改革の差が、この民間人瀬島・加藤と官僚OBによる調整工作にかかっていたという点が注目される 。
以上のように、加藤寛は「裏臨調」「裏会議」を活用し、自ら政界との調整役を果たすことで、最新の「情報」を入手し事務局に対する主導権を確保したのである。

(6)臨教審、政府税調との比較

 中曽根政権期の第二臨調、臨教審、政府税制調査会のうち、中曽根首相が考えていたような方向で「問題解決原則の超越性」を発揮しえたのは第二臨調だけであり、また、民間人の審議会メンバーが事務局を掌握しえたのも第二臨調だけである。このことは「問題解決原則の超越性」を持つことは、事務局の掌握と表裏一体であることを示している。

                    第二臨調        臨教審        政府税制調査会
決定権限の超越性―――――――○――――――――○―――――――――○
問題解決原則の超越性―――――○――――――――×―――――――――×        
事務局――――――――――――○――――――――×―――――――――×

 事務局は「庶務権」を行使することで審議会をコントロールすることができる。その事務局を、審議会メンバーである加藤寛らが掌握できたのはなぜか。
 審議会メンバーは、たとえ専門家として政策内容の「サブ」の情報については事務局以上のものを持っていたとしても、政策調整プロセスの「ロジ」に関する情報では事務局に依存せざるをえない。例えば、「首相の意向」「与党の意向」などについては審議会メンバーは、事務局情報に頼らざるを得ない。
 政策調整プロセスの「ロジ」に関する情報とは、審議会にとっての「外部情報」である。
 例えば、一般に、審議会の非常勤の民間メンバーにとっては、その時々の「首相の意向」「与党実力者の意向」などの情報入手は困難である。他方、事務局官僚は、自らが、あるいは出身官庁の人的ネットワークの中で官邸や与党の情報を入手できる。
 特に、審議会メンバーにとっては、政界動向は不確実性を意味し、その不確実性を縮減できる事務局の政局情報は政策の内容をもコントロールする影響力を持つと考えられる。フランス官僚制を研究したエアハルト・フリードベルクは「非人格的規則の確立によって、フランス式官僚制は組織の作動にのしかかる不確実性の最大の源泉を除去することをめざす」が、「それにもかかわらず存在し続ける1つあるいは少数の不確実性の諸源泉を統制する人々の勢力を、必然的に強化してしまう」という 。その不確実性の一つは「組織とその環境との関係のまわり」に生まれ、「成員のうちで、知識や多元的な所属や環境のあれこれの部分への関係という資本を持つ者は、少なくとも、部分的には、この不確実性を減少させうるであろうから、まったく当然にも、組織の中で一定の勢力を所有する」ことになる。フリードベルクはこれを「<境界領域>の勢力」、「<門番>の勢力」と呼び、「片足は門の内部に、片足は門の外に置くことによって複数の役割を担い、それゆえ不可欠な仲介の役割を担う人物の持つ勢力」とする 。
 審議会メンバーが「<境界領域>の勢力」になろうとしなければ、事務局が相対的に「<境界領域>の勢力」として優位に立つ。土光臨調では、加藤寛自らが「<境界領域>の勢力」となることで、事務局に対して情報の優位に立ち、事務局を掌握していったのである。
加藤が「<境界領域>の勢力」となる上で、瀬島龍三が果たした役割は大きい。自らを「参謀型人間」と考える瀬島は「調整役」として、加藤寛らを官界や政界の自らの人脈に紹介した 。この瀬島が紹介した官界・政界のネットワークは、事務局の官僚のネットワークを上回るものとなり、加藤が事務局に対して「情報」において優位に立つことにつながったものと考えられる。
瀬島は陸士や陸大を首席で卒業した「陸軍兼海軍参謀」であり、シベリア抑留の経験を持つ。当時の政界・官界・財界にはこの経歴を持つ瀬島への「敬意」は強く、強い説得力があったとされる 。戦前・戦中の旧エリート秩序感覚が、戦後の官界のエリート秩序感覚に対して超越する価値観として機能し、このことが政界の派閥や官界の省庁縦割りを超えるネットワークを可能とし、加藤はこのネットワークにのることができたのである。
このように、旧軍人といった縦割りを超えていくインフォーマルな人脈の活用というのは、戦後の一定の時期にのみ有効だったスタイルである。今日、「境界の溶解」、「ネットワーク化」といわれるような経済社会変化が進んでいる。こうした中で、多種多様な人々とのネットワークを持つ「<境界領域>の勢力」がどのように情報における優位に立つことができるか、そこが「第3臨調」が今後発足した場合の課題となるだろう。第2臨調で活躍した加藤寛のように、事務局の掌握を可能とするような議事運営能力、調整能力、広報能力など、多面的な能力を発揮できる人材がシンクタンクや政策系の大学・大学院において育成がなされることが期待される。

(7)佐藤政権・小泉政権との比較

中曽根政権期の土光臨調は「臨時的」かつ「制度的・公式的」な「アリーナ」を活用するものであった。これを歴史の流れの中に位置づけると、佐藤栄作政権の「非制度的・個人的」な小グループを活用したパターンと、21世紀の「恒常的」かつ「制度的・公式的」な「アリーナ」である経済財政諮問会議を活用するパターンとの中間ということができる。
佐藤政権期の「非制度的・個人的」な小グループを活用したパターンについては、福井治弘が1964年から1969年にかけての日本政府の沖縄返還交渉における決定過程を「非常時型」決定モデルにより分析している 。福井治弘によれば「非常時型」決定パターンの特徴は、決定中心においては最高政治指導者とその助言者から成る小グループによる集権的支配と統制であり、決定参加者数の少なさ、そして参加者間関係の非制度的で個人的な性格のために、この決定者集団はきわめて高度の柔軟性と状況適応性を発揮することができた。そして、日常的事務処理とは異なり、積極的行動性、革新性、標準事務処理手続きの無視、恣意的で上から押し付けられた決定の受諾、明確な責任帰属などの特徴を持つ、とされる 。
「恒常的」かつ「制度的・公式的」な「アリーナ」については、小泉政権期の経済財政諮問会議についての分析が必要とされることになるが、経済財政諮問会議には、土光臨調の専門委員だった牛尾治朗が民間議員として参加していた。小泉政権発足時に経済財政政策担当大臣に就任した竹中平蔵は、加藤寛が創設し初代学部長になった慶応義塾大学総合政策学部教授と、シンクタンク理事長から閣僚に転進した。




参考文献:

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大嶽秀夫(1994)『自由主義的改革の時代』中央公論社
大嶽秀夫(1997)『「行革」の発想』TBSブリタニカ
加藤寛・山同陽一(1983)『土光さんとともに730日―行革奮戦記』経済往来社
加藤寛(1990)『体験的「日本改革」論』PHP研究所
加藤寛・竹中平蔵(2008)『改革の哲学と戦略』日本経済新聞社
後藤田正晴(1988)『政治とは何か』講談社
財団法人世界平和研究所編集(1995)『中曽根内閣史 理念と政策』財団法人世界平和研究所
財団法人世界平和研究所編集(1997)『中曽根内閣史 資料篇(続)』財団法人世界平和研究所
千田 恒(1986)「鈴木善幸内閣」『新版・日本の内閣Ⅲ』新評論
田中一昭編著(2006)『行政改革』ぎょうせい
中曽根康弘(2004)『自省録-歴史法廷の被告として-』新潮社
牧太郎(1988)『中曽根とは何だったのか』草思社
福井治弘(1975)「沖縄返還交渉―日本政府における決定過程」『国際本政治』59号、有斐閣
読売新聞政治部(1983)『総理大臣・中曽根康弘』現代出版
臨調・行革審OB会((1987)『臨調 行革審-行政改革2000日の記録』財団法人行政管理研究センター
アンソニー・ダウンズ(1967、日本語版1980)『民主主義の経済理論』成文堂
エアハルト・フリードベルグ(1972、日本語訳1989)『組織の戦略分析』新泉社