「勝ち負け」という身内共同体の人物評価基準で政策判断することの国民にとっての悲劇 | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

「勝ち負け」という身内共同体の人物評価基準で政策判断することの国民にとっての悲劇

秘書です。

「勝ち負け」という身内共同体の人物評価基準で政策判断することの国民にとっての悲劇。

外国の中央銀行総裁ならばあたりまえの金融や経済の博士号を持つスペシャリストが持つであろうロジックへの忠誠よりも、金融政策の中枢に立つ法学士ジェネラリストの悲劇としての人事評価基準への忠誠なのか?

それが「失われた20年」の根幹にあるのかもしれない。三重野さんに限らず、2000年の速水さん、2006年、2007年の福井さんという日銀プロパー総裁の金融政策の失敗の原因も、「勝ち負け」で、合理的な説明が可能になるのかも?

日銀内部のエリートの中の人物評価基準が日本国民全体にリスクとなっているのでは?

しかし、日銀だけを責めるのは酷でしょう。実は、身内共同体の人物評価基準をもとに政策判断するということは、あらゆる終身雇用制のもとの政策エリート集団に普遍的に存在する日本の致命的欠陥であり、日本が戦略なき国家、頭脳なき国家に落ちていく原因の根幹なのではないでしょうか?

そして、誰一人として結果責任を負うことはない。

身内共同体の人物判断基準に忠実だった結果であり、その結果が国民にとってよくなかったとしたら、それは海外の要因か国民劣化が原因であり、政策判断は絶対に間違いではない!

このロジックをマスコミも学界も国民の各界各層が受け入れて、玉砕に向かっていく・・・


“平成の鬼平”逝く…三重野氏の功罪
2012.04.25 zakzak
.連載:「日本」の解き方
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120425/plt1204250715000-n1.htm

三重野康氏【拡大】

 1989年から5年間日銀総裁を務めた三重野康氏が亡くなった。三重野氏は日銀総裁当時、バブル退治をしたとして「平成の鬼平」と呼ばれた。しかし、その後の長期低迷の原因を作ったという批判もある。

 私は三重野氏とは直接の面識はないが、旧大蔵省内で三重野氏の評判はよかったと思う。旧大蔵省のドンといわれた長岡実氏と旧制一高の同期だったと聞いたことがある。

 どんな組織でも同じだがプロパーでトップまで上り詰める人は人間的な魅力がある。おそらく三重野氏もそうした人物だったのだろう。

 ただ、そうした人間的な魅力と仕事のパフォーマンスは必ずしも一致しない。「平成の鬼平」という持ち上げはマスコミによるものだが、当時の日銀内の期待をも表したものだった。

 当時の日銀には、公定歩合の上げは「勝ち」、下げは「負け」という雰囲気があった。これは大蔵省と日銀の微妙な関係を反映したものだった。

 当時は、日銀総裁は大蔵省出身者と日銀プロパーとの交代で就くという不文律があり、大蔵省は財政支出を抑え税収を増やせる景気刺激策として金利引き下げを求めがちであった。

 このため、大蔵省との対抗という意味合いと、中央銀行自身が持つインフレ忌避という観点から、公定歩合の上げ下げで、勝ち負けという表現をするようになったのだろう。私も幾度となく聞いたことがあった

 この表現を使えば、公定歩合については1980年8月に9%から8・25%に引き下げて以来、87年2月に3%から2・5%に引き下げるまで、日銀は10連敗だった。

 それが、89年5月に2・5%から3・25%に引き上げて連敗を食い止めた。その当時、三重野氏は副総裁だった。同年12月に総裁になったが、この連勝を続けたかったのかもしれない。就任直後の12月も「勝ち」、90年3月と8月も「勝ち」、5連勝になって、公定歩合は6%にまで上がった。このときに「平成の鬼平」といわれたのだ。

 ただし、その時にはバブル崩壊は誰の目にも明らかだった。私は89年12月、株価押し上げの要因とされていた「営業特金」を抑制する政策転換を行い、それを境に株価は急落した。不動産融資の総量規制も90年3月に実施された。これらを考慮すると、少なくとも90年8月の利上げは不要だったと言わざるを得ない。

 しかも、問題は91年7月に6%から5・5%に下げるまで時間がかかったことだった。下げのタイミングが遅れると、その後の引き下げは後追いとなって、景気回復できない。結局、その後の失われた20年となってしまった。

 後講釈かもしれないが、当時のバブルは資産市場だけの価格上昇であり、一般の財・サービスの価格上昇はなかった。つまり、カネが資産市場だけに流れ込んだので、資金規制で潰すべきで金融政策での対処が適切だったのかどうか疑問だ

 そして、バブルが崩壊した後は早く金融緩和すべきだった。(元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)


→宮沢喜一さんは、バブル崩壊への危機感をもっていた。だから、91年春から金融緩和を主張していた。首相に就任したら不動産融資規制を撤廃した。1992年8月には公的資金導入を提唱した。しかし、誰も支持しなかった。日銀は1992年8月に、どういう判断をしていたのか?そして、政界全体はこのあと、(いまや推進派から自己批判が絶えない)小選挙区導入と自民党政権打倒に熱狂していく・・・。あの不人気だった宮沢さんですが、あと3年総理をやっていれば、バブル崩壊後の後遺症もこれほど長引かず、そして、年金改革や経済財政一体改革の発想のもとでの財政再建も進んでいたかもしれない。歴史に、もしも、はないのですが。