歴史の教訓:①1941年独軍モスクワ撤退と同時の対英米開戦、②1930年世界同時不況下の金解禁 | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

歴史の教訓:①1941年独軍モスクワ撤退と同時の対英米開戦、②1930年世界同時不況下の金解禁

秘書です。

真珠湾攻撃から70年、①1941年12月8日のドイツ軍モスクワ撤退と同時の対英米開戦、②1930年世界同時不況下の金解禁という日本の指導者の国際情勢認識と戦略観について、いかなる歴史的教訓を得て、今日の政治情勢に生かすべきでしょうか?


真珠湾攻撃70年 フーバー元大統領が批判
産経新聞 12月8日(木)7時55分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111208-00000089-san-pol

 ■陰謀図った「狂気の男」

 【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874~1964年)が、日本軍による真珠湾攻撃の際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、1882~1945年)について、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。

 米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。

 真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうとした-などとする“陰謀説”が日米の研究者の間で浮かんでは消えてきたが、米大統領経験者が“陰謀説”に言及していたことが判明したのは初めて。

 ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領のトルーマンの指示で戦後の日本などを視察。46年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥と会談した。その際、フーバーはマッカーサーに対し、日本との戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘。在米日本資産の凍結など41年7月の経済制裁は「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語ったという。

 マッカーサーも、「ルーズベルトは41年夏に日本側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努力をすべきだった」と批判していた。

 著書ではフーバーが「米国から日本への食糧供給がなければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろう」とマッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたことも詳細につづられており、フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなっている。

 ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけになってほしい」と話している。

→ナッシュ氏が明らかにしたようにルーズベルトが「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』」だったとして、当時の日本の指導者はなぜそのルーズベルトの「陰謀」にのってしまったのか?敵指導者の陰謀や挑発にのっての開戦であったとすれば、それ自体、当時の指導者は日本国民に対して重大な責任があることを意味するのでしょう。

→実は、当時の日本の指導者にはドイツの快進撃に幻惑されていたところがあったのではないか。その国際情勢認識とドイツ勝利に依存した戦略に根本的な欠陥があったのではないか?


→『日本の戦争計画におけるイギリス要因―「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の消滅まで』
という赤木完爾先生の戦争史研究国際フォーラムにおける会議報告(2003/03/31)から、歴史の教訓を学びましょう。

http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2002/forum_j2002_7.pdf

「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」

方針
速やかに極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携して先ず英の屈服を図り米の継戦意思を喪失せしむるに勉む
要領
帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及び西南太平洋に於ける米英蘭の根拠を覆滅し戦略上優位の態勢を確立すると共に重要資源地域竝主要交通線を確保して長期自給自足の態勢を整ふ
凡有手段を尽して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む


赤木先生の報告によれば、この「腹案」は、ヨーロッパの戦争におけるドイツの優勢とイギリスの屈服という二つの仮説に依存していました。つまり、ドイツの動向に決定的に左右される性格を持っていました。しかし、ドイツが日本の希望に沿って動く気配はなく、このことが「腹案」の戦争終末構想を破綻へと導きました。

大本営と政府の政策決定者は、来るべき戦争が長期化するであろうと考えていましたが、その長期戦の実態が、近代兵器を投入して大量消耗を伴う激烈な陸海空にわたる連続的な戦闘であるということは洞察できませんでした。そして、そのうちに相手方が継戦意思を放棄して、講和会議となるのではないかと考えていたのです。

開戦当時の軍令部作戦課長、富岡定俊大佐は次のように回想しているそうです。


「この戦争は、敵に大損害を与えて、勢力の均衡をかちとり、そこで妥協点を見出し、日本が再び起ちうる余力を残したところで講和する、というのが私たちのはじめからの考え方であった。だが、そうはいっても、講和の希望にたいする裏付けが、とくにあったわけではない。しかし、当時は、欧洲でも大戦が進行しており、最高指導者の間ではドイツも非常に勝っていることだし、バランスということもあるので、講和のキッカケはその間にでるだろう、と考えられていた

→1941年12月8日、日本が英米両国と戦闘状態に突入したとき、日本の国家戦略の大前提であるドイツ軍の快進撃が止まった。ドイツ軍はモスクワ攻略を諦め、撤退を開始した。このドイツ軍撤退を当時の日本の指導者はいつ知ったのか?なぜ、戦略の軌道修正をしなかったのか?ここにこそ、歴史の教訓の核心の一つがあるはず。

→そして、もう一つ。第二次世界大戦の遠因となっているのが1929年の世界大恐慌。


1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価大暴落(暗黒の木曜日)
1931年1月11日、浜口雄幸内閣が金解禁の断行(円切り上げ、デフレの加速)
1931年9月20日、イギリスが金本位制離脱

ニューヨーク株式市場が大暴落して世界大恐慌がはじまったにもかかわらず、浜口雄幸民政党内閣はなぜ円高デフレ路線に突き進んでいったのか?野田民主党政権が欧州危機の中の円高デフレ路線を進めている今こそ、浜口首相の判断の誤りの原因を再確認すべきときでしょう。なお、1931年12月13日に犬養毅政友会内閣が発足し、高橋是清蔵相が金輸出再禁止、1932年11月25日の日銀国債引き受けによる政府支出増を行い、日本はデフレから脱却しています。これこそが、悔いあらためないデフレ増税派にとっての不都合な真実であり、日銀は高橋是清さんを執拗に攻撃しています。世界最速で不況から日本を脱出させた是清さんはどんな考え方をもっていたのか?

「周知の如く我が国が各国に比し早く経済難局から脱し得たのは、輸出の躍進と、通貨の適正なる供給ということに負う所が大きい。・・・金輸出再禁止政策が目ざすところは右の如く、一は貿易輸出の進展に機会を与えること、同時に二は国内に適正量の通貨を供給し生産と消費との間の失われた均衡を回復せしめ、もって両者の連絡、調節を円滑ならしめんとすることになった」(高橋是清(1930)「経済難局に処するの道」)

→1932年2月の総選挙で、犬養首相と高橋是清蔵相の与党である政友会は「不景気の民政党か、景気の政友会か」と国民に訴え、171議席から303議席に大躍進。浜口首相を支えていた民政党は247議席から144議席に激減。2012年、自民党は?