福島原発公開の「制約」 | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

福島原発公開の「制約」

秘書です。

さきほどのテレ朝系モーニングバードで福島原発視察のことをやっていました。
報道制限や質問制限(大臣が質問制限をしようとしたのに吉田所長が制限をふりきって回答)について視察に参加した人が語っていました。各紙にのった「制限」についての部分は?


東日本大震災:福島第1原発構内、初取材 8カ月、なお無残
毎日新聞 2011年11月13日
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20111113ddm010040078000c.html
 鉄骨がむき出しとなったボロボロの原子炉建屋、一面に散乱するがれき、津波によって無残に破壊された海沿いのタンク……。東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発事故から8カ月。ようやく立ち入ることができた原発構内は、津波や爆発の爪痕が今も生々しく、国内最悪の原子力事故のすさまじさを見せつけた。高い線量の中、現場では事故収束工程表のステップ2の年内終了を目指し、原子炉の「冷温停止」に向けた作業が続けられていたが、廃炉まで30年以上とも言われる長い道のりだ。

 ◇事故直後からの要請やっと 公開対象・行動に制限

福島第1原発3号機の原子炉建屋=福島県大熊町で2011年11月12日午前10時48分(代表撮影) 毎日新聞を含む報道各社は事故直後から、福島第1原発構内の取材要請を続けてきたが、東京電力と政府はこれまで、「事故収束作業に支障が出る上、放射線量が高く安全を確保できない」として拒んでいた。今回、事故収束に向けた作業を細野豪志原発事故担当相、園田康博内閣府政務官が視察するのに合わせ、制約付きながら初めて同行取材を認めた。

 取材が許可されたのは、細野氏の取材を主に担当する内閣記者会常駐19社と、地元福島県内のテレビ、新聞7社、海外メディアの代表取材記者の計36人。フリー記者やインターネットメディアは「人数に制約がある」などとして対象から外された。

 取材メディアを選別したことについて、フリー記者らから不満が出たが、園田氏は「細野担当相の同行取材なので、内閣官房の基準に従った」と説明した。

 細野氏は4日の記者会見で「今回一度、(一部メディアを対象に)公開し、どの程度取材を受け入れられるのか見極めたい。その上で、徐々に広く取材できる環境を作らないといけないと思っている」と述べ、今後構内取材の機会を増やす意向を示した。

 一方、政府は当初、「テロ対策上、監視カメラの位置などの警備状況が外部に漏れないようにする必要がある」として、同行取材時に撮影した写真や映像を東電の担当者がチェックし、問題があると判断した場合は削除すると通告した。ところが、報道各社が「検閲にあたる」と反発したため、事前チェックは撤回された。ただし、正門やフェンスなどは撮影が禁止された。

 また、被ばく線量を抑えるため、構内での自由な行動は許されず、バスに乗ったまま窓ガラス越しの撮影を余儀なくされた。【笈田直樹】

◇冷温停止が目標、炉内把握不十分
 事故収束に向けた工程表で、政府と東電は、原子炉の「冷温停止状態」の年内達成を目指している。その定義として(1)圧力容器底部の温度が100度未満(2)原子炉からの放射性物質の管理・抑制(3)放射性汚染水を原子炉の冷却水に再利用する「循環注水冷却システム」の安全運転の維持--を挙げる。


福島第1原発を報道陣に初公開
2011年11月12日 20:39 AFPBB
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/disaster/2840346/8070997

【11月12日 AFP】政府は12日、3月11日の東日本大震災で事故が発生した東京電力(TEPCO)福島第1原子力発電所を震災後初めて報道陣に公開した。

 防護マスクと防護服を着用してバスに乗った30人を超える報道陣の目に、津波で破壊され、冷却機能が失われた福島第1原発の荒れ果てた建屋が飛び込んできた。

 燃料の放射性物質で自発核分裂が起きていたことが前週になって発覚するなど不測の事態が相次いでいるが、政府と東京電力は年内に冷温停止できるとの見通しを示している。

 今回の取材ツアーは、問題解決が近いことを示そうとする東京電力の努力の一環で、外国メディアからは4人だけが参加を許可された。東京電力はこの日、平日の半数にあたる1600人が福島第1原発で作業していると説明した。

 一緒に福島第1原発を訪れた細野豪志(Goshi Hosono)原発事故担当相は、作業の司令塔となっている免震重要棟で、視察のたびに原発の状況は着実に改善していると思うと作業員たちに語りかけ、その労をねぎらった。

 細野担当相は年内に冷温停止を目指すという政府の目標を重ねて強調したが、廃炉には30年以上かかるという点にも言及した。

 NHKによると福島第1原発の吉田昌郎(Masao Yoshida)所長は、「事故直後の1週間は死ぬだろうと思ったことが数度あった」と語った。1号機や3号機が水素爆発したときなどは「終わりかなと思った」という吉田所長は、現場には放射線量が高く危険な場所もあるが、原子炉のいまの状態は安定しているので住民には安心して欲しい、と述べた。

 前日の11日には、事故対応拠点となっているサッカー施設「Jヴィレッジ(J-Village)」(福島県楢葉町、広野町)も報道陣に公開された。取材した記者たちは、使用済みの防護服やマスクなどを詰めたビニール袋が敷地内にたまっているが、その処分方法はまだ決まっていないと報じた。(c)AFP

福島第一原発の敷地内初公開 
2011年11月13日 07時12分 東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011111390071250.html?ref=rank

 政府は十二日、東京電力福島第一原発の敷地内を、三月の事故発生後初めて報道陣に公開した。収束作業の指揮を執る吉田昌郎(まさお)所長が現地で初めて取材に応じ、「炉は最も重要な冷却が進んでおり、安定しているが、放射線量が高いなど環境は今も厳しい」との認識を示した。

 吉田所長は福島県民と国民に対し、「心よりおわび申し上げたい」と陳謝した上で、「今、働いている人はほとんどが福島の人。私も十四年ここに住んでおり、なんとかしたいと思っている」と述べた。

 事故発生当時を振り返り、「次がどうなるか想像もつかない中でできうる限りやった。『死ぬだろう』と思うことが数度あった」。2号機に冷却水を入れられなかった三月半ばには「コントロール不能になって終わりかなと感じた」という。

 当面の課題として放射線量の高さを挙げ、「敷地内はまだ危険な状態」との認識を示した上で、次第に作業員の被ばく線量が増えていく状況に、「人繰りが頭の痛いところだ」と語った。

 報道陣は、細野豪志原発事故担当相の現地視察に同行する名目で原発敷地内に入った。内閣記者会加盟の報道各社や地元新聞社、テレビ局、外国報道機関が参加した。

 敷地内の滞在時間は三時間余りで、防護服や全面マスクを着用。1~4号機を中心に、車内から見て回った。ただ取材場所や撮影は厳しく制限された。国は「核物質の安全や記者を被ばくから守ることを考えた」と制限の理由を説明している。



高い線量、壊れた屋根・・・福島原発、事故後初公開関連トピックス原子力発電所東京電力.
2011年11月12日21時34分 朝日新聞
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201111120447.html
 政府と東京電力は12日、福島第一原発の敷地内を3月の事故後初めて報道陣に公開した。細野豪志原発担当相による事故収束作業の視察に記者らが同行する形で入った。事故直後から現場で陣頭指揮を執ってきた吉田昌郎所長(56)も公式の場で初の取材に応じた。

 取材陣はまず敷地内の南側にある高台から、福島第一原発を一望した。風に揺れるススキの穂の向こうに、壊れた4号機の原子炉建屋が見えた。水素爆発で壁が吹き飛び、すき間からは事故前に定期検査で外されていた格納容器の黄色いフタがのぞいていた。

 その隣の3号機もやはり水素爆発で屋根も壁もめちゃくちゃに壊れ、今はさびて茶色い骨組みがわずかに見える程度だ。周りにはがれき撤去のための大型クレーンが並ぶ。奥には2号機や、カバーで覆われた1号機も見えた。

 3、4号機より手前で排気筒の横にある建物を見つけた。使用済み燃料を保管するプールがある建物で「ここの浸水が防げていれば……」と原子力関係者が残念がっていたのを思い出した。この建物の地下の配電盤が津波で水をかぶったため、生き残った非常用発電機も結局使うことさえできなかった。

 敷地の北側では山の斜面に原発に電気を送る送電線の鉄塔がアメのように曲がって倒れていた。この鉄塔が最初に地震で壊れ、外部からの電源を失ったのも事故原因のひとつだ。

 敷地内にはまだまだ放射線が高い場所がある。取材ルートは線量の低い場所が選ばれたが、それでもバスで3号機のそばを通った際、他社の記者の線量計のアラーム音が鳴った。東電社員の測定で毎時1ミリ(1千マイクロ)シーベルトだった。

 敷地内にいたのは約3時間。測定では記者の積算被曝(ひばく)線量は69マイクロシーベルトだった。(小堀龍之)


→最後に今日の電気新聞より。

事故直後「瞬時に靴溶けた」 福島第一作業員が証言
 2011/11/14 電気新聞
http://www.shimbun.denki.or.jp/news/main/20111114_01.html

作業員たちは中央操作室に残り、通勤用の車などからバッテリーを集めて計器の機能回復を図った
ベントで原子炉建屋に入ったら、瞬時に靴の裏が溶けた--。東京電力福島第一原子力発電所の事故発生直後、対応に当たった作業員の証言の一端が明らかになった。現場作業員の詳細な証言が公になるのは初めて。証言では余震に伴う退避や水たまりでの作業による感電への恐怖なども語られ、厳しい状況の中で復旧作業が行われたことが浮き彫りになった。

東京電力の相澤善吾副社長・原子力・立地本部長が4日、東京大学で開かれた「第3回東大エネルギー・環境シンポジウム」で紹介した。

福島第一原子力発電所は津波により交流・直流電源をすべて喪失。中央操作室は照明が落ち、原子炉水位なども監視できなくなった。

当時の状況について、作業員は「電源を失って何もできなくなったと感じた」と証言。電源を失い、放射線量も上昇する中で「中央操作室に残る意味について、運転員の間で激しい議論になったが、現場に残った」という。

原子炉に注水できなくなったことで、東電は代替注水を始めたが、現場はなおも大きな余震が続いていた。作業員は「大きな余震のたびに全面マスクを着用のまま、高台に死にものぐるいで走って逃げた」と振り返っている。

津波で現場が水浸しになったことも、復旧作業を難しくさせた。「屋外には水たまりがあり、夜のケーブル敷設作業では感電の恐怖があった」という。

1~3号機で試みられた格納容器ベントの現場状況も明らかになった。通常であれば、ベントは中央操作室からの操作が可能だが、当時の福島第一原子力発電所は電源を失っていたため、作業員が現場に赴いて弁を動かす必要に迫られた。

だが、原子炉内は燃料露出により高温にさらされていた。「ベントのため、原子炉建屋に入り、トーラス(足場)に足をかけたところ、瞬時に靴の裏がずるっと溶けた」という作業員の証言は、その異常さを物語っている。

原子炉建屋内は温度だけでなく、放射線量も極めて高かった。東電は被ばくの危険性を考慮し、年齢が上の作業員が現場作業を行うなどの措置を講じていた。 (本紙1面より)
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