予算膨張の歯止めとなったのは日銀か?元老か? | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

予算膨張の歯止めとなったのは日銀か?元老か?

秘書です。

国家戦略会議に、日銀総裁が参加されるようですね。
9月1日、日銀総裁は国債引き受けしないことを、「国の形」だと言いました。これは国会の決議があろうがなかろうがそういう立法府の判断を超越することを宣言したものなのでしょう。
国家戦略会議で是非、国債引き受けをしないことが「国の形」なのか議論していただきたいものです。


中銀が国債引き受けないのは「国の形」、白川日銀総裁が31日に都内で講演
2011年 09月 1日 13:45 JST
http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPnTK049829120110901
 [東京 1日 ロイター] 日銀の白川方明総裁が8月31日に都内で開かれた日本証券経済研究所主催のイベントで講演し、中央銀行が国債を引き受けないのは「国の形」だと表現し、引き受けた場合の副作用を厳しく警戒していたことが1日、わかった。
 出席したみずほ証券の上野泰也チーフマーケットエコノミストによると、白川総裁は、日銀の国債引き受けという想定できるリスクをあえてとるべきだという議論があるのはおかしい、と指摘。中央銀行が国債を引き受けないのは「国の形」であり「ルール」と述べたという。
 また、円高だから日銀はもっと緩和すべきという声があるが、日銀は機械的に為替相場に対応しているわけではない、と明言。マネタリーベースの増やし方は先進国で最大で、これだけ金融緩和をしても経済が成長していかないことの方が問題と指摘。人口減少と高齢化の中で成長力をどう高めるかが課題、との持論を繰り返したという。
 総裁は日銀の金融政策について、日銀のPRが下手、と指摘。ただ、手探りで追加緩和を模索してきた中でフロントランナーとなっており、日銀が採用した政策はすべて米連邦準備理事会(FRB)が採用している、同じような問題を抱えると中央銀行として同じような思考を経て同じような結論になってくる、との見解を示したという。

→この「国の形」論は、戦前の歴史についての日銀固有の歴史認識(日銀史観)に基づいています。

インタビュー:日銀国債引き受け、いずれインフレ招く=日銀研究所
2011年 07月 20日 18:40 JST
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-22284920110720?sp=true

 [東京 20日 ロイター] 日銀による国債直接引き受けの是非について、鎮目雅人・日本銀行金融研究所歴史研究課長は、1930年代前半の高橋是清蔵相時代の事例について、当初5年程度は高インフレが生じたわけではないとしつつ、その後の歯止めなき財政拡大につながり、激しいインフレをもたらしたと説明。
 当初の景気浮揚局面とその後の軍需による利用という局面を分けることなく、日銀引き受けという当初の制度の導入が後の戦時インフレまで連続的につながっていくという見方に立って、歴史の教訓に学ぶべきとの認識を示した。

  <当初の日銀引き受け自体に問題なく>

 1930年代前半に昭和恐慌からの脱却を図るために高橋是清蔵相が主導した拡張的なマクロ経済政策のもと、日銀による国債直接引き受けが行われた。この事例では、当初は物価も安定し、昭和恐慌から早期脱却できたとみられている。実質国民総生産(GNP)は32─36年度は年平均プラス6.1%、インフレ率(GNPデフレータ)も1.5%程度の上昇におさまっていた。

 こうした物価安定のもとでのしっかりした成長が実現した要因について、鎮目課長は円安と財政支出の拡大による効果が大きかったと説明。

 まず、金本位制離脱による円安政策により円の対ドル相場は1931年の金輸出再禁止の後1年で60%下落。「景気回復とデフレ克服に大きな効果を発揮した」とみている。2つ目が「財政支出拡大と金利の引き下げ。他国より大規模な財政支出を行い、併せて公定歩合は計4回引き下げられて3%程度利下げされ、大胆な景気刺激策がとられた」ことも寄与したという。

 同時に、発行が急増した国債について、日銀による直接引き受けを実施。しかし、日銀はこれを速やかに市中に売却していたため、日銀によるマネー供給量はさほど増加せず、円安による輸入物価の上昇にもかかわらず、国内物価ではインフレが抑制されていたとみられる。

 鎮目課長は、国債の発行市場が未発達ななかで中央銀行が一時的に国債を引き受けせざるを得ない状況があり、それをなんとか市中に売却できていた当初の段階ではインフレにはつながっていなかったと説明。 

  <拡張的財政支出につながり激しいインフレに>

 このように日銀引き受け導入当初において高インフレは生じなかったものの、鎮目課長は「中央銀行による国債引き受けはこのようにはじめは問題がないように見えても、財政支出の増加に歯止めがかからなくなり、その後激しいインフレをもたらしたというのが、歴史の教訓」だと指摘。1936年、二・二六事件で高橋蔵相が暗殺された後、日銀引き受けは歯止めがきかなくなり、戦時インフレへとつながっていく。

 鎮目課長によると、具体的な日銀引き受け状況の推移をみると、32年─36年度の各年度の国債発行額は7─8億円、GNP比4─6%で推移、うち8─9割が日銀引き受けにより発行された。

 ところが高橋蔵相が暗殺された後の37年度の国債発行額は22億3000万円、GNP比9.8%に増加。うち16億6100万円が日銀引き受けとなった。37─40年度までのインフレ率は(GNPデフレータ)はプラス11.9%に跳ね上がった。その後太平洋戦争の物価統制を経て戦後の物資不足もあり、激しいインフレとなったという。

 このほか、「軍需がなくとも日銀引き受けが実施され、インフレにつながった事例として、戦後の復興金融公庫債の日銀引き受けの事例がある。この時期、日銀の政府向け貸付と復金債の日銀引き受けにより、財政ファイナンスが行われたことが、激しいインフレの要因として挙げられることが多い」と説明。

 鎮目課長は「32─36年の間だけとれば高インフレが起きたということではないが、しかしその後の時代とは分けて考えることは適当とは思えない」との見方を示した。「いったん、中央銀行による国債引き受けを始めると財政支出の増加に歯止めが効かなくなり、国債の日銀引き受けの額が膨らんでくると、市中に売却しきれなくなり、インフレにつながった」と指摘し、当初はうまくいっていても日銀引き受けという制度を導入することでいずれ制御不能のインフレを招くと強調した。

 (ロイターニュース 中川泉 石黒理絵  編集 内田慎一)

→上記のような日銀史観が、今日のデフレ長期化肯定の理論的背景のようです。「ハイパーインフレになるからデフレを甘受せよ」ってことですね。適度なインフレ率の維持は日銀にはできません、デフレでなければハイパーインフレですという二項図式の志向により、現状を肯定しているわけです。

→2.26事件があろうがなんだろうが、関係ない、ということですね。それが「国の形」論にまで飛躍していくわけです。

→戦前の財政破綻と国の形について、別の見方はないのか?


政治システムと財政パフォーマンス:日本の歴史的経験
岡崎 哲二(経済産業研究所)
RIETI Discussion Paper Series 04-J-009 2004 年2月
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/04j009.pdf

(要旨)
本論文では、戦前日本に焦点を当てて、政治システムと財政パフォーマンスの関係について検討して
いる。戦前の日本は、近代国家成立以後の数十年の期間に、政治システムと財政パフォーマンスの両面
について大きな変化を経験した。この経験は、両者の関係を実証的に検討するための貴重なデータを提
供する。
大日本帝国憲法は、国務と統帥の分離と、前者における国務大臣の単独補弼制の二つの面で分権的な
政治システムを規定していた。この枠組みの中で、日露戦後、政治システムの構成要素であった軍部・
官僚・政党が自立化を始め、予算に強い膨張圧力を加えた。しかし、第一次大戦前期には憲法外機関で
ある元老が国家統合と財政規律の維持に寄与した。これに対して、第一次大戦期以降、元老の機能が低
下し、分権的な政治システムの下で財政規律を保つことが難しくなった。1920 年代に定着した政党内閣
制が予算を全般的に膨張させたことは定量的に確認できる。1930 年代には軍部の影響力が増大しただけ
でなく、軍部の内側でも意思決定の断片化が進展した。日露戦後に黒字基調であった財政のプライマリ
ーバランスは1920 年代以降、赤字基調に転換した。こうした財政パフォーマンスの変化は、上記のよ
うな政治システムの変化を反映したものと考えられる。

(本文(抜粋))

3、政治システムの断片化と財政:政党と軍部

・・・政党内閣の時代は、自立化したもう一つの勢力である軍部の影響力の増大によって1932 年に終わった。軍部の一部が引き起こした5.15 事件によって犬養内閣が倒れた後、後継党首であった鈴木喜三郎は総理大臣に奏薦されず、元海軍大臣の斎藤実が総理に任命された(百瀬[1990]、p.19)。以後、終戦まで、政党内閣が組織されることはなかった。
政党に代わって発言力を増したのは軍部であった。
元老の機能低下、1920 年代における政党内閣制の定着、1930 年代における軍部の台頭と要約される
以上のような政治システムの変化は、予算編成と財政構造に大きな影響を与えた。政党から軍部への主
導権の移行期にあたる1930 年から1936 年に、大蔵省主計局で司計課長(1930 年3 月~1932 年11 月)、予算決算課長(1932 年11 月~1934 年5 月)、主計局長(1934 年5 月~1936 年5 月)を歴任した賀屋興宣は、当時大蔵省が受けた予算に関する軍部と政党の圧力について次のように述べている(大蔵省大臣官房調査企画課[1977]、p.3)。「各省の概算要求額は-中略-非常に大きな金額でおそらく日本の予算史上そういう時代はとうてい他にみられないほど過去においては大きな要求金額であった」。陸海軍の軍事費、農村救済費、中小企業救済費等が概算要求を増大させる主要な要因となっていた。一方で長期不況のために税収は減少ないし停滞したから、「要求者とそれを差し止めようとする大蔵省との争いは非常に苛烈な状況」となった。
予算獲得のため「陸海軍大臣は会議の席でこぞって、政治的、事務的に猛烈に要求する。それが通ら
ない場合、陸海軍大臣を辞職するとまでおどかす」という行動をとった。「陸海軍大臣に辞職問題が起
こると、これは内閣の生命に関する。内閣の予算閣議のときにその基礎が動揺する」ことを見通した戦
略である。また、「各省においてもことに農村振興予算、中小工業救済予算について非常な熱意をもっ
て要求しておった。農民もつよい要求をする。工業団体も強い要求をする。農林省はもとより強い要求
をする。軍部の方を考えると軍の人的源泉は農村である。農村出身者は最も有力な軍の構成員であった
から、これを堅実にするために軍部は非常にこれを応援する。そうすると政党関係とか、その代議士の
地盤に関することもあって、代議士が非常に猛烈に応援する。そういうわけで、大蔵省、とくに予算当
局は全国的にそういった攻撃を受けておるという状態であった」(大蔵省大臣官房企画調査課[1977]、
pp.3-4)。各省の予算要求の背後に軍部と政党の強い圧力があった事実を読みとることができる。
政治システムの構成要素が自立化する動きは軍部の内側にも及んだ。賀屋は陸海軍の予算要求が膨張
した理由について次のように述べている。「予算関係においてもこれらの人々(中堅将校-引用者)が
自分の意見を主張して譲らない。しかも上は統制することができない。したがって要求は膨大になる。
極端にいうと、上の者は下の者の言うことを鵜呑みにして多少統制を加えるということで、陸軍大臣、
海軍大臣が財政上少なくしなければならないと思っても、下の者が承知しないというような状況であっ
た。陸海軍大臣や次官によく話して纏めてもらうということはとうていできない状況であった」。その
ため、予算の査定を閣議で実質的に決着させることができず、いったん閣議に提出された案件が再び大
蔵省と陸海軍省の局長以下の事務折衝に委ねられることが常態となっていた(同上、p.11、p.25)。
以上のような政治システムの変化は財政パフォーマンスにどのような影響を与えたであろうか。日露
戦争がもたらした財政の危機的状況は、第一次大戦期のインフレを伴う急速な経済成長によっていった
ん解消した。前節で述べた財政再建の努力によって国債残高のGNP 比はピーク時の70.8%(1910 年)
から第一次大戦直前の1913 年に53.6%まで低下していたが、大戦ブームの中で低下を続け、1919 年に
は日露戦争前とほぼ同じ水準の22.6%に戻った(図3)。しかし、これを底として国債残高のGNP 比は
再び上昇を始め、1931 年には50%を超えた。この間、日本が大きな戦争を経験しなかったにもかかわ
らず大幅な政府債務の増加が生じたことが注目される。プライマリー・バランスを見ると、日露戦後の
1907 年から1919 年まで13 年にわたって続いてきた黒字から1920 年に赤字に転換し、1923 年から1926年の4 年間は黒字に復帰するものの、以後、第二次世界大戦後まで毎年赤字が持続した(図4)。このような政府債務と財政収支の動向は政府支出の動きを反映している。政府支出のGNP 比は第一次大戦中の1916~1918 年に10%以下に低下した。しかしその後、これを底として長期的な上昇傾向に入り、日中戦争直前の1930 年代前半には日露戦時に匹敵する20%を超える水準に達した(図2)。
日清・日露戦後期と同様に、上記式(1)によって財政構造を検討しよう(表2)。1921-1928 年の8 年
間は日本経済が長期不況に直面した時期にあたるとともに、政治史上では戦前日本の政党内閣制がピー
クを向かえた時期を含んでいる。各省の固定効果は、日露戦後と同じく大蔵省・逓信省・内務省・陸軍
省・海軍省の5 省について大きい。これら5 省の固定効果を日露戦後期と比較すると、逓信省・内務省
の増加率が相対的に高いことがわかる。一方、予算の省間配分の硬直性を示すR2 は0.888 であり、日露戦後期よりは低下したが、いぜんとして日清戦後期とほぼ同じ高い水準にあった。一方、1929-1936 年の8 年間は軍部の発言力が増大した時期を含む。引き続き、上記5 省の固定効果が大きいが、直前の8年間と比較すると明確な変化が見られる。内政関係の官庁を代表する逓信省・内務省の固定効果が減少したのに対して、陸海軍省の固定効果は大幅に増加した。一方、予算の省間配分の硬直性を示すR2 は
0.852 に若干ではあるが低下した。
これらの結果は次のように解釈することができる。第一次大戦後、軍部・官僚・政党の自立化がいっ
そう進展したことによって予算に対する膨張圧力が増大し、しかもこれら勢力を抑える元老の機能は大
幅に低下していた。その結果、政党内閣制が定着した1920 年代には特に政党の圧力によって内政諸省
の予算が顕著に増加する一方、軍部の発言力が拡大した1930 年代には軍事費の著しい増加が生じた。
その結果、政党・軍部の予算膨張圧力と大不況による税収減が重なった1932 年度に、政府は、日銀引
受による国債発行という財政政策のレジーム転換に踏み切った。1930 年代に予算の硬直性が若干緩和されたのは、国債発行によって予算制約が緩和されたことを反映している。
・・・

4、おわりに

大日本帝国憲法は、国務と統帥の分離と前者における国務大臣の単独補弼制の二つの面で分権的な政
治システムを規定していた。国務と統帥が独立していただけでなく、国務の内部でも総理大臣は各省大
臣に対しても命令権を持たなかった。しかし、第一次大戦前には元老という憲法外の機関が国家の統合
に寄与し、そのことが財政パフォーマンスにも大きな意味を持っていた。日露戦後、戦争が残した巨額
の国債が財政を圧迫する中で、自立化し始めた軍部・官僚・政党という政治システムの構成要素が予算
に強い膨張圧力を加えた。政党の圧力は、政党内閣において内務省予算の増加率が有意に高かったとい
う事実によって裏付けられる。毎年度の予算をめぐって政局は動揺を繰り返したが、結局は予算の拡大
は抑制され、大幅なプライマリー・バランスの黒字が継続的に生み出された。予算の膨張圧力に大蔵省が抵抗する際の最終的なに拠り所となったのは元老であった。日露戦後、元老はしばしば予算プロセスに介入して予算の膨張を抑えた
しかし、第一次大戦期以降、元老の機能は総理大臣の奏薦と宮中事項に限定され、1930 年代前半には事実上消滅した。統合機能を担ってきた元老の役割が低下した結果、大日本帝国憲法が規定する分権的な政治システムの下で財政規律を保つことは難しくなった。1920 年代に定着した政党内閣制が予算を全般的に膨張させたことが確認できる。1930 年代には軍部の影響力が増大しただけでなく、軍部の内側でも意思決定の断片化が進展した。1920 年代以降、政府支出のGDP が増加傾向を示すとともに、プライマリー・バランスは赤字基調を続けた。日露戦後から第一次大戦後にかけてのこうした財政パフォーマンスの変化は、上記のような政治システムの変化を反映していたといえる
1937 年に日中戦争が勃発し、臨時軍事費特別会計が設置されると、軍事予算に対する規律はさらに弱
くなった。臨時軍事費特別会計は戦争終結までを1 会計年度とする特殊な特別会計であり、同特別会計
について終戦までの8 年間に15 回の予算編成が行われた。また、予算科目も、陸軍臨時軍事費・海軍
臨時軍事費・予備費の三項の区分があるにすぎず、1940 年以降は陸海軍の区分もなくなった。その結果、費目間の予算流用についても大幅に自由度が広がった(大蔵省財政史室[1955]p.105)。重要なことは、臨時軍事費特別会計については、事前的な自由度が大きかっただけでなく、事後的な検査が同時に緩和された点である。太平洋戦争開戦後に制定された会計法戦時特例、会計規則等戦時特例、計算証明規程戦時特例等の一連の法令によって、臨時軍事費の支出に対する会計検査院の検査が著しく簡略化された(同、pp.118-119)。事前査定と事後検査を同時に緩和すれば、その帰結は明らかであろう。図2~図4が示すように、1940 年代前半、政府支出のGDP 比、政府債務のGDP 比はともに上方に発散し、日本の国家財政は事実上破綻した。

大蔵省財政史室[1955]『昭和財政史Ⅳ 臨時軍事費』東洋経済新報社
大蔵省大臣官房調査企画課[1977]『大蔵大臣回顧録』大蔵財務協会
百瀬 孝(伊藤隆監修)[1990]『事典 昭和戦前期の日本-制度と実態』吉川弘文館

→「予算の膨張圧力に大蔵省が抵抗する際の最終的なに拠り所となったのは」、日銀ですか?元老じゃないですか?

→日銀が国債を引き受けることに反対して、凶弾に倒れた人はいましたか?

→「国の形」で必要なのは元老のごとき統合機能。(政治主導という呼び名で)そうした統合機能を持つことへの縦割り省庁の抵抗に動揺し妥協を繰り返しているのが民主党政権。だから国家戦略会議には統合機能をもたせないようにしよう、薄めようとする力が働いているのでしょう。


知られざる日銀の国債引受 課長の一存で額決まる実態 30兆円ならいますぐできる
2011.04.26zakzak高橋洋一
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20110426/plt1104261554002-n1.htm

 菅政権は増税まっしぐらだ。五百旗頭真・復興構想会議議長は冒頭の挨拶から増税を唱え、安藤忠雄議長代理もテレビ出演で増税、他の委員もほとんど異口同音に増税だ。よほど財務省からの増税という「ご説明」の効果があったようだ。

 その「ご説明」では、日銀による国債の引受は禁じ手ともいわれている。日銀引受は、復興の財源方法として、増税と対極にあるものだ。白川方明日銀総裁は「通貨の信認が失われる」という形で強く拒否し、新聞なども、「日銀引受は禁じ手で有識者やマーケット関係者に反対論が多い」と報じられている。ただし、その実態はほとんど誰も知らない。

 4月7日の本コラムを読んだ読者なら、日銀引受が毎年行われていることをご存じだろうが、その話は他の新聞には載っていない。毎年行われている話が禁じ手のはずない。財務省・日銀の「ご説明」は、日銀引受が行われたのは戦前で、今は行われていないという錯覚に陥らせる高度な洗脳術だ。

 私はかつて大蔵省時代に国債発行を担当して毎年行われていた日銀引受もやったことがある。数字は今年度のもので説明しよう。

 国債発行額は44兆円といわれるが、これは新規債の数字だ。このほかに借換債110兆円、財投債14兆円の計約170兆円が発行される。新規債、借換債、財投債といっても、マーケットでは同じ条件でそれらの区別はない。

 新規債の数字は主計局、借換債は理財局、財投債も理財局からくる。それら170兆円を、銀行などから希望を聞いて、銀行などの市中消化152兆円、日銀引受12兆円と割り振る。銀行は資産運用手段として国債は欠かせないが、あまり多すぎては困るという立場。だから、170兆円から銀行希望の152兆円を引いた残差で、基本的には日銀引受額が決まる。

 日銀引受も日銀のプライドとして許せないので少なくしたいというときもあるので、財務省と日銀の間のネゴもある。私が官邸にいた2006年度の日銀引受は23兆円と他の年よりやや多いが、これはちょっと関係者に私が相談したからだ。はっきり言えば日銀引受の数字は課長レベルで決まるので、変えるのはたやすい。

 実は、日銀引受は日銀が保有する国債の満期償還額の範囲内ならいい。一応日銀の顔を立てるために、通貨膨張がない範囲だ。今年度の日銀が保有する国債の満期償還額は30兆円。したがって、財務省・日銀の言い分を100%丸呑みしても、30兆円と今の日銀引受額12兆円の間の18兆円は、日銀引受額を増額してもいい。この変更は予算修正なしでできる。(元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)