中曽根政権から何を教訓に学ぶべきか | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

中曽根政権から何を教訓に学ぶべきか

秘書です。

今朝の読売新聞4面に、前原誠司民主党政調会長のインタビュー記事「僕のモデルは中曽根さん」が出ています。そこで、今朝は中曽根政権から何を教訓に学ぶべきか、考えてみましょう。


(1)中曽根政権は、行政改革・教育改革・税制改革に取り組みました。行革=成功、教育改革=失敗、税制改革=失敗です。この成否を分けたものは、事務局掌握の度合いにあります。

まず、教育改革をみてみましょう。

中曽根さん自身は教育改革について「中途半端で終わってしまいました」と総括しています。(大嶽秀夫(1997)『「行革」の発想』TBSブリタニカ、P.46.)これは失敗だったと総括したことを意味していると考えられるでしょう。その教育改革失敗の一因は、臨教審の事務局を文部省に譲ったことにあります。中曽根さんは以下のように語っています。

「(臨教審を内閣に取り上げてつくったが)、そのとき文部省が非常に抵抗し、その事務局をどうするかという問題になったのです。私は文部省の人間でないほうがいいと思っていましたが、文部大臣を説得し、自民党の文部族を説得するために、いわゆる妥協をせざるをえなくなって、文部省の事務局に譲った。それが中教審の勢力の矛先みたいになって、とうとううまくいかなかった。そういうことではないかと反省しているしだいです」(大嶽秀夫(1997)『「行革」の発想』TBSブリタニカ、pp.47‐48.)

臨教審がどんな雰囲気だったのか、臨教審メンバーの一人の香山健一さんは第二回臨教審の模様について以下のように語っています。

「臨教審は発足直後の第二回総会から、いきなり審議会の運営方法、審議の進め方、教育改革の理念などをめぐって、委員相互あるいは委員と事務局、特に文部省関係者との本格的な論争の場となり、我が国審議会の歴史上先例のない『論争する審議会』となることになった」(財団法人世界平和研究所編集(1995)『中曽根内閣史 理念と政策』財団法人世界平和研究所、p.681.)

では、税制改革はどうか。

中曽根首相は1986年6月の衆参同日選挙で大勝しました。中曽根首相はこの選挙で「国民が反対し、党員も反対するような大型間接税は導入しない」と公約していました(同年6月14日)。さらに国会審議の中で「縦横十字に投網をかけるような大型間接税はいたしません」と中曽根は答弁しており、中曽根は政府税調に対して、「国会で言ったことは守ってほしい」と大型間接税を行わない旨を確認して、複数の選択肢をもってくるよう注文しました。しかし、大蔵省が税制調査会と協議して中曽根首相にもってきた4つの選択肢は、「ヨーロッパタイプの付加価値税がよろしい」というものでした。

大平首相はこれを鵜呑みにして選挙で敗れたが、中曽根さんは、出てきた案をみて大蔵省という所が「政治家殺し」であることを思い出し、「私は、君らには殺されないよ」と「日本的な消費税」を作れと命じました。」(中曽根康弘(2004)『自省録―歴史法廷の被告として』新潮社、中曽根康弘、前掲書、pp.193-194.)

由井常彦さんは、1986年の同日選圧勝が大蔵省の「大型間接税」導入への「激しい衝動」を生んだといっています。大蔵省の解釈では、税制改革失敗の究極的な原因はいつも政権の不安定性にあり、「圧倒的な与党の議席を持つ今回の内閣のような安定した政権は今後当分ありえない」、それゆえ、大蔵省内において「このチャンスを逸することなく一刻も早く抜本改革をという目に見えない力が省内を駆り立て」るようにり、「大蔵省と周辺の責任ある人々をして、一刻も早い実現、そして妥協的な案より、公約に十分そぐわなくても理想的な改革へ、と駆り立てることになった」のである、としています。(財団法人世界平和研究所編集(1995)『中曽根内閣史 理念と政策』財団法人世界平和研究所、pp.521-522.)

中曽根政権における税制改革は、大蔵省主税局が事務局を掌握する政府税制調査会で行われました。中曽根首相は1985年9月にこの政府税制調査会に、中川幸次、飯島清、公文俊平、牛尾治朗、堺屋太一、江副浩正ら10名の特別委員を「暴れ馬」といて送りこみました。「暴れ馬」の任命には、政府税調が大蔵官僚ペースで進むのを牽制する目的がありました。その「暴れ馬」の1人の中川幸次さんは、以下のように第二臨調と政府税調の違いを指摘しています。

「総勢60名という大所帯で、メンバーの大半が利害関係者か、大蔵省の息のかかったマスコミの代表か、学者か、という中で、素人の暴れ馬が議論をリードすることは到底不可能であった。しかも事務局は大蔵省主税局である。私は、税調での議論の進行が臨調・行革審のそれと余りに違うのにびっくりした」(財団法人世界平和研究所編(1995)『中曽根内閣史 理念と政策』財団法人世界平和研究所、p.562.)

(2)中曽根首相が改革に成功したもう一つの重要な要因は、旧海軍人脈と旧全学連人脈を活用したことです。

戦時中、海軍の「短期現役補修科学生制度」(短現)により多くの大蔵・内務官僚が軍役につきました。中曽根さんは「短現」の6期にあたります。中曽根さんは臨調行革を回顧し、以下のように語っています。

「当時は各省とも事務次官や官房長に、海軍時代の仲間がかなりいたのです。海軍で、同じ釜の飯を食べたことが効きました。官邸から直接、電話を入れると、たいてい協力を惜しみませんでした」(中曽根康弘(2004)『自省録―歴史法廷の被告として』新潮社、p.191.)

鈴木・中曽根政権期の臨調行革の時代、旧海軍人脈のインフォーマル・ネットワークで結ばれた人々が各省庁の幹部にいたことは、省益を越えて行政改革を推進する上で有利であったと考えられます。(これら、いまいるところと別の「同じ釜の飯を食った」経験を持つ共同体への所属意識を持つ官僚がいたことが、ある世代において「官僚には省庁を超える国家意識がある」とみられていたことの根源の一つではないかと考えられます。海軍に限らず、戦中・戦後の満州国、企画院、経済安本にも同じことがいえるように考えられます)

そして、もう一つ。旧全学連人脈。香山健一、佐藤誠三郎、公文俊平ら旧全学連人脈が第二臨調や臨教審のメンバーになっています。また香山健一は全学連時代の人脈を生かして、靖国参拝問題などについて、当時の中国指導者・胡耀邦周辺の共青団人脈との間での意見交換を行っています。もしも、1980年代でも日本で全学連が活発だったとしたら、きっと、胡錦涛主席以下の共青団人脈と太いパイプをもっていたことでしょう。しかし、80年代のシラケ世代の学生にはそのような活動はありませんでした。(前原さんはこの世代ですね)

たぶん、国鉄改革でも、特に労組との関係ではより広汎な全学連人脈が動いたのではないでしょうか?(鉄労と動労がくっついたことなどはこの観点からみるべきでは?)

臨調第4部会ではどうだったかについては、加藤寛先生や屋山太郎さんに直接聞きに行かれるのがいいでしょう!

(3)中曽根さんは内務官僚でしたから、霞が関文学も読み込むことができたのでしょう。周辺には、旧内務官僚の後藤田官房長官もいましたし。

読売新聞では、前原さんは「霞が関文学」(=官僚がまとめた文書)を「100%見抜く力を持たないといけない」といっています。どうすればいいか?脱藩官僚を側近に置くことです。

民主党の不思議さは、脱藩官僚(古賀茂明さんも脱藩官僚になってしまいました)を周辺において、霞が関文学と日程管理をさせるチームを編成して政権に乗り込まないことです。いわば、コーンパイプをくわえたマッカーサーがスタッフ抜きで日本に単身赴任してきたようなものです。これでは、民主党が本気で脱官僚依存をやり、霞が関主流と真剣勝負をする覚悟がないといわざるをえない。