深夜の鉄道ニュース(祝・足尾鉄道ガソリンカー復活) | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

深夜の鉄道ニュース(祝・足尾鉄道ガソリンカー復活)

全国200万の鉄道ファンのみなさま、こんばんは。
志士の目鉄道研究会です。

秋です。今年も、「10.14鉄道の日」が近づいてきましたね。
全国各地の鉄道イベントシーズン到来です。

そんななか、先の連休で、秘書仲間が子供を連れて鉄道博物館にいってきました。また、鉄道マニア人口が拡大。
よし!
三つ子の魂100までも。ここで鉄道魂をしっかり注入するため、絵本として、鉄道博物館の展示物の本をプレゼントしました。

さて、まずは、鉄道復活の嬉しい話から。


足尾鉄道ガソリンカーを復活 あすから「鉄道祭り」
(9月23日 下野新聞)
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20110922/616013

 【日光】足尾町と群馬県桐生市を結ぶ第三セクター「わたらせ渓谷鉄道」の前身である足尾鉄道の開通100年を記念した「足尾の鉄道100+ 件祭り」が24、25日、同鉄道足尾駅で開かれる。駅前の軌道跡に特設の線路を約110メートル敷き、復元されたガソリンカーを運行させる。乗車無料。駅構内で保管されている貴重な車両も公開する。記念弁当なども販売され、鉄道100+ 件ファンの人気を呼びそうだ。

 足尾鉄道は古河鉱業(現・古河機械金属)などにより、1912年に桐生-足尾駅間が開通した。18年には国有化されたが、銅山閉山などに伴い89年から「わたらせ渓谷鉄道」が引き継いだ。

 ガソリンカーは大正末期から昭和初期にかけて、旧足尾町内で銅山の物資などを輸送した小型機関車。約20キロ区間を時速約10~15キロで運行していた。自動車の普及に伴い、1953年に廃止された。

 復元は、街の活性化などに取り組むNPO法人「足尾歴史館」のメンバーが、2007年から手作りで始めた。70年以上前のエンジンを搭載するなど当時の姿を忠実に再現し、10年11月に完成させた。4月からは歴史館内で土、日曜などに運行させている。

 祭り当日は、当時のガソリンカーが走行していた軌道跡に線路を敷き往復させる。他にも、銅を製錬する際に回収される濃硫酸を輸送し、現存は1台しかないという「濃硫酸専用タンク車」や「石油輸送用タンク車」、「ディーゼル機関車」2両も公開する。

 また、ガソリンカーをデザインした包み紙を使った100年弁当の販売や、沿線住民らによる模擬店も出店する。

 ガソリンカー復元に携わった同町の町田洋さん(67)は「古い社宅前などを走行するので、当時の風景が再現できる。私たちの思い入れのいったんが伝わればいいのですが」と期待している。

 祭りは両日とも午前9時半から午後3時45分まで。問い合わせは歴史館電話0288・93・0189。

→「ガソリンカー」の復活!すばらしい。みなさんの町に「ガソリン道」という道があったら、その道にはガソリンカーが走っていた証拠です。

夢へのレール、32メートル復元 遠山森林鉄道の会
09月25日(日)信濃毎日新聞
http://www.shinmai.co.jp/news/20110925/KT110924SJI090002000.html
 「遠山郷」と呼ばれる飯田市南信濃、上村両地区の林業を支え、1973(昭和48)年に廃線となった森林鉄道の復元に取り組んでいる「夢をつなごう遠山森林鉄道の会」は24日、南信濃木沢にある駅跡地「梨元ていしゃば」にレールを敷く作業をした。森林鉄道の運行に携わったり、幼いころ親しんだりした住民らが汗を流し、当面の目標50メートルのうち32メートルを完成させた。

 作業には県外の会員らを含め約40人が参加。砂利を敷き、間伐材などを利用した枕木を並べた。民家の屋根の重しなどとして使われていたレールを据えて、犬くぎで枕木に固定した。

 遠山森林鉄道の保線などに従事した地元のお年寄りが指導する場面も。会長の前沢憲道さん(63)=飯田市南信濃=は「教えてもらうのは今しかない。機関車を走らせ、林業で栄えた地域の歴史を残したい」と力を込めた。

 南信濃出身で大阪府茨木市の会員、上野豊さん(62)は「こうした重労働をして木を動かした時代があった」と昔を懐かしんだ。飯田市川路の小川五男さん(67)は木曽郡大桑村出身。故郷を走っていた森林鉄道への強い思いから今回の参加を決めたといい、「近い将来、ぜひ乗れるようにしたい」と話していた。

→こちらも復活運動!

アオガエル、よみがえる/松本で電車撮影会
2011年09月24日
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000001109240003
 アルピコ交通上高地線を走っていた東急「5000系」の電車。当時の緑色に塗り替えられた電車の一般撮影会が23日、松本市の新村駅構内であった。下膨れのふっくらとした姿と色から「アオガエル」の愛称で親しまれた電車とあって、県内外から約300人の鉄道ファンが詰めかけ、よみがえった電車をカメラに収めていた。

 東急で運行後、カラーデザインを変えて旧松本電鉄で1986年から2000年まで走っていた。引退後は地域住民のイベントなどに使われている。車体の傷みが目立つようになったことから、鉄道マンら有志が「昔の色に塗り替えよう」とボランティアで補修と再塗装に取り組んだ。

 この日、新村駅構内には5000系2両のほか、雪かきや資材の運搬に使っていた電気機関車も展示。撮影会の入場券に日付入りの硬券を使ったり、県内私鉄4社のグッズ販売コーナーを設けたりするなど鉄道ファンの心をくすぐった。
 東京都世田谷区の山本泰史さん(48)は「渋谷駅のハチ公前広場に同じものがあるけど、原形を見られるのはここだけ。あの丸みと色は懐かしい」と喜んでいた。(田中正一)

→東急線にお国帰りしたら大イベントになりますね。

「幸せを運ぶ青い電車」 運行
JR伊那北駅の開業100周年を記念
(2011/9/24放送)いなまい・ドットコム
http://inamai.com/news.php?c=shakai&i=201109241852110000044333
JR伊那北駅の開業100周年を記念して鉄道ファンなどから「幸せを運ぶ青い電車」と呼ばれる119系電車が23日、臨時運行されました。 

この日は、伊那小学校の児童や希望者など120人ほどが、JR伊那北駅から青い電車に乗り込みました。

車内には、万国旗が飾り付けられ、参加者を迎えました。

このイベントは、伊那北駅が来年1月に開業100周年を迎えることから、地元の山寺活性化協議会が企画しました。

参加者が乗り込んだ119系は、飯田線では、昭和50年代後半から運行していました。

現在では、この電車を残すのみで、ほとんど通常の運行に利用されておらず、鉄道ファンなどから、幸せを運ぶ青い列車と呼ばれています。来年3月に廃車となる予定でその後は飯田線から姿を消します。

この列車に乗って、午前10時40分にJR伊那北駅を出発し、高森町の市田駅で折り返し、伊那北駅まで戻ります。

山寺活性化協議会が、伊那商工会議所などの協力を得て、JR東海飯田支店との交渉を繰り返して、運行を実現させました。

車内では、家族連れがお菓子を食べながら会話を楽しんだり、子ども達が風景を写真に収めるなどしていました。

市田駅に到着すると、お弁当を広げ、昼食を楽しみました。

往復の沿線では、119系の青色電車を写真に収めようと多くの鉄道ファンがシャッターを切っていました。

午後2時半過ぎに、電車は伊那北駅に戻りました。

→こちらの青い電車は幸福をよぶ電車。廃車はもったいないですね。

井笠鉄道が100年感謝フェス
9月25日 中国新聞
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201109250020.html
 路線バス事業を展開している井笠鉄道(笠岡市)の創業100周年を記念したイベント「100周年ありがとう!フェスティバル」が24日、平成町の太陽の広場で催された。バスの展示や記念グッズ販売、ステージ発表などがあり、多くのファンでにぎわった。

 同社が初めてイベントを主催、飲食ブースでは従業員自らが対応した。千冊限定発売の記念乗車券セット(千円)も好評。展示会では同社の49人乗り観光バスなどが並び、親子が車内を見学した。

 関藤篤志社長は開会式で「地域の皆さんのご支援で歴史は作られた。今後も頑張りたい」と感謝した。同社は1911年に軽便鉄道として創立。13年に鉄道事業、25年にバス事業を始めた。鉄道は71年に廃止した。

→伝説の軽便鉄道・井笠鉄道のニュースは無条件でとりあげます!

→鉄道社長公募のお知らせです。


報酬は年700万円、赤字3セク鉄道が社長公募
(2011年9月25日11時31分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110925-OYT1T00275.htm

 秋田県などが出資する第3セクター「秋田内陸縦貫鉄道」(内陸線、北秋田市)は、次期社長を公募している。

 現職の若杉清一社長(60)が辞職を申し出たためで、同社は「優れた経営ノウハウを持ち、強い意志と信念の下、経営立て直しに取り組める人材を招きたい」としている。

 新社長の就任は12月1日の予定で、任期は2013年6月の定期株主総会までの約1年半。報酬は年700万円で再任も可能。鉄道事業での経験は問わないが、専従勤務を要件にした。

 希望者は「内陸線の経営改善に向けてどんな取り組みをすべきか」をテーマにした小論文(1200字以内)などを同社に提出する。締め切りは10月7日(必着)。書類審査と面接を経て、10月末にも合格者を決める。

 内陸線は12年度に経常赤字2億円以内を達成できない場合、経営構造を抜本的に見直すことになっているが、10年度決算では乗客数が前年度比約6万9000人減の約41万2000人と大幅に落ち込み、経常赤字も2億5700万円に膨らんだ。

 同様に赤字経営が続いている第3セクターの由利高原鉄道(由利本荘市)も6月、公募で新社長を決めた。

 問い合わせは、秋田内陸縦貫鉄道(0186・82・3231)へ。


→思いつくのは、①羽後交通色の復活、②南部縦貫鉄道からレールバスの借入、③鹿島鉄道の保存車両の借入・・・

→こちらの社長さんはほんとに復活させました。


転職し山形鉄道社長に 野村さん、群馬で講演会
2011年9月26日0時44分 朝日新聞
http://www.asahi.com/travel/rail/news/TKY201109250323.html

 山形県でローカル線を運行する第三セクター「山形鉄道」社長の野村浩志さんが10月16日、群馬県前橋市大手町2丁目の群馬会館で「野村社長の涙と笑いのものがたり」と題して講演する。

 野村さんは旅行会社の社員だったが、グッズの考案などで山形鉄道の活動に協力。2009年、公募で経営者に選ばれた。講演では趣味を追求して転職するまでを語る。

 主催するNPO法人「パスの会」の山口実さんは「これから働く人や働くことについて考えている人にぜひ聞いてほしい」と話す。

 午後1時半から。参加費1千円。定員100人。問い合わせは山口さん(090・5822・8462)へ。

→「スカ色」の電車がついに引退のニュース。

「スカ色」113系、ファンに見送られ記念運行
(2011年9月25日09時52分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110925-OYT1T00215.htm?from=navlp
 紺とクリーム色の塗装で親しまれ、1日の最終列車で定期運転から退いたJR東日本の「113系」車両の引退記念運行が23、24の両日行われ、両国―銚子、館山駅間を往復した。

 銚子駅には、カメラを手にした鉄道ファンら約100人が詰めかけて別れを惜しんだ。

 113系は、千葉県内には1969年に投入された。総武線快速・横須賀線でも99年まで千葉―久里浜(神奈川県横須賀市)駅間で運行され、紺とクリーム色の車両は「ヨコスカ色」を縮めた「スカ色」の愛称で親しまれた。

 23日は、総武線、成田線を使って両国―銚子駅間を往復。両国駅を出発した113系車両は、午後0時24分に銚子駅に到着した。ホームに停車した車両を記念運行の乗客や鉄道ファンらが写真に収めていた。

 車両は午後2時5分、鉄道ファンらが「ありがとう」と手を振る中、銚子駅を発車。銚子市観光アテンダントが募った「見送り隊」の28人も黄色い法被を着て見送った。

 113系に乗務したこともある銚子駅の桜井浩駅長(53)は「昭和の頃から親しまれた列車。思い入れもあり、引退は寂しい面もある」と話した。

 24日も両国駅発着で、総武線と内房線、外房線を使った2コースで記念運行が行われた。


さらば!昭和の名車両「113系」ラストランにファン600人
2011.09.24zakzak
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110924/dms1109241800007-n1.htm

 半世紀にわたって首都圏で活躍してきた昭和を代表する名車両「113系」が24日、最後の運転を終え引退した。引退記念列車が出発するJR両国駅にはファンら約600人が詰めかけ、別れを惜しんだ。

 「プヮーン」。午前9時22分、ふだん一般客は入れない3番線の折り返しホームに長い警笛が響きわたると、ファンらは「おつかれさま!」「ありがとう!」とねぎらいの言葉をかけ、遠ざかる113系を見送った。

 113系は昭和38年にデビュー。横須賀線に配属された車両は、クリーム色の車体に紺色の帯が施され、路線名にちなんで「スカ色」と呼ばれ親しまれた。横須賀線と総武快速線で平成11年まで活躍。その後は、新聞だけを運ぶ新聞輸送列車や千葉県内のローカル線で「余生」を送った。

 両国駅はかつて、房総方面への特急列車などが発着したターミナルだった。3番線ホームはその時代の名残。千葉県へ夕刊を配送する113系の「新聞輸送列車」が昨年3月まで発着していたほか、かつて夏の海水浴シーズンには、113系を使用した臨時快速「白い砂」号や「青い海」号が房総方面に向け出発していた。記念列車には「快速 青い海」と書かれた往時のヘッドマークが取り付けられ、「有終の美」を飾った。

 鉄道ファンで都営浅草線の運転士という古木修さん(32)は、専門的な見地から「運転台が高いところにあり、視認性に優れている。先頭車両の正面に(人が通れる)貫通扉があり、地下線区間にも乗り入れられるようになった」と113系の功績を紹介。「青春時代の思い出がつまった113系がなくなるのはさみしい。その後の鉄道車両の礎を築いた名車だった」とたたえた。

 都心のターミナルで折り返さずに、都心を経由して郊外と郊外を結ぶ別路線の相互直通運転は昭和47年、横須賀線と総武快速線から始まったという。

 総武快速線の錦糸町駅から東京駅を経由して横須賀線の品川駅まで地下線で開通。地下区間を走行できる113系が両線を結ぶと、それまで房総方面のターミナルだった両国駅は、各駅停車しか止まらない駅になった。

 「今でも乗れる昭和の鉄道」(東京堂出版)の著者で作家の小牟田哲彦さんは「その意味で、最後の列車がターミナルの地位を失った両国駅から出発したのは、不思議な因縁と時の流れを感じさせる」と話した。

→むかしむかし、両国から銚子に向かったとき、まだ、ディーゼル機関車が茶色の客車ひっぱっていたなあ。銚子電鉄の電機が現役だったなあ。