人民元の地域化と日本の過去の貨幣制度と | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

人民元の地域化と日本の過去の貨幣制度と

秘書です。

日本国内の東アジア共同体論者のみなさんは、人民元の地域化についてはどうお考えで?


中国、人民元の国際化目指す前に地域化進めるべき=シンクタンク
2011年 09月 8日 11:51 JST
http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-23084320110908
 [北京 7日 ロイター] 中国の政府系シンクタンク、国務院発展研究センターは、研究員チームが共同執筆した書籍の中で、中国の人民元国際化に向けた取り組みは時宜を得ていると評価した上で、国際化に向けて、まず近隣国や新興国などを対象に元の地域化を進めるべきとの見解を示した。
 「人民元の地域化」と題されたこの書籍の共同執筆者であるChen Daofu氏やZhang Chenghui氏らは「この先長い間、人民元がドルやユーロの地位と肩を並べる可能性は低い。したがって現実的なアプローチは、国際化の前に地域化を目指すことだろう」と指摘している。

 書籍はまた、国際金融市場で中国の存在感は依然として小さく、世界の経済大国としての同国の地位に見合っていないとし、人民元の国際化プロセスが大きく進展するには時間がかかる可能性があるものの、不可欠だとしている。

 書籍は、人民元の利用を南は東南アジア、アフリカ、中南米、西は中央アジアの上海協力機構加盟国、北は北朝鮮、モンゴル、ロシアと、3方面に拡大するべきと提案

 さらに、貿易における元の利用を拡大し、元建て融資や金融支援の拡大も目指すべきとしている。

→昔、日本では中国の貨幣が流通していました。

日本の貨幣の歴史
http://www.mint.go.jp/kids/page02.html

奈良・平安時代

708年 「和同開珎」(わどうかいちん(ほう))がつくられました。それから250年の間に、金貨1種類、銀貨1種類、銅銭12種類(皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん))がつくられました。
その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が金・銀貨幣をつくるまでの約600年間、日本で貨幣がつくられることはなく、中国から輸入(ゆにゅう)した貨幣がつかわれていました

平安後期・鎌倉・室町時代

宋(そう)(中国)との貿易(ぼうえき)で砂金(さきん)を輸出(ゆしゅつ)し、かわりに宋の銅銭(どうせん)を輸入(ゆにゅう)して日本国内で使っていました。

1404年
明(みん)(中国)と室町幕府(むろまちばくふ)との間に条約(じょうやく)が結ばれ、貿易が始まりました。銅銭は、ますます重要な輸入品(ゆにゅうひん)となり、特に「永楽通宝」(えいらくつうほう)は、人気があり、全国でつかわれました。


安土・桃山時代戦国時代
16世紀の中頃になると、金銀の採掘(さいくつ)がさかんになり、金山や銀山を手に入れた戦国大名(せんごくだいみょう)は、金貨や銀貨をつくりました。中でも有名なのは、武田信玄(たけだしんげん)がつくった甲州金(こうしゅうきん)です。

1587年~ 豊臣秀吉(とよとみひでよし)が金貨や銀貨をつくり始め、天正16年(1588)には「天正長大判(てんしょうながおおばん)」や「天正菱大判(てんしょうひしおおばん)」などをつくりました。これらは、おもにほうび用として使われ、庶民(しょみん)はあいかわらず明銭やびた銭をつかっていました。


江戸時代

徳川家康(とくがわいえやす)が日本で初めて貨幣制度(かへいせいど)を統一(とういつ)し、全国で使うことのできるようにと金・銀貨をつくりました。

1636年 徳川家光が「銭座」(ぜにざ)を設置(せっち)し、銅銭(寛永通宝(かんえいつうほう))をつくり始めました。

1695年 (元禄の改鋳)(げんろくのかいちゅう)金貨・銀貨の質(しつ)を落として貨幣の数量(すうりょう)を増やし、幕府の財政難(ざいせいなん)を切りぬけようとしましたが、物価(ぶっか)が上がって人々を苦しめる結果(けっか)となりました。その後、江戸末期まで貨幣の改鋳(かいちゅう)がくり返されました。

(金貨の海外流出)

ペリーが来航(らいこう)し、日本が開国へとあゆみ始めたころ、日本と海外との金銀交換比率(きんぎんこうかんひりつ)の違いを利用してもうけようとする外国商人たちによって大量の金貨が海外へ流出しました。

1866年  このように混乱(こんらん)した貨幣制度を整えることを約束した「改税約書(かいぜいやくしょ)」をアメリカ・イギリス・オランダ・フランスと結びましたが、約束をはたせないまま時代は明治へと移っていきます。



貨幣の散歩道 第15話 東と西の永楽銭
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_15.htm

 室町時代中期以降わが国に大量に輸入された永楽通宝を中心とする明銭は当初、貨幣としてなかなか受け入れられなかった。このため、室町幕府では、明銭の使用を奨励したほか、永楽銭に対する撰銭禁止令を公布した。しかし、民間においては、明国で永楽銭に代表される明銭の貨幣としての使用が忌避されていたことが色濃く影響していたのであった。なお、明国で明銭の使用が忌避されたのは、明政府が税の支払いに際し銭貨での受け取りを拒否したという事情が挙げられる。
 こうした傾向は、中国からの情報の伝達が早いほか、唐・宋などの古銭を貨幣として重視する西日本でとくに強かった。しかし、東日本では関東地方を中心として、逆に明銭が流通貨幣の主体を構成していた。それはまた、文禄2年(1593)、佐竹義宣の家臣大和田重清は、常陸の国に帰郷するに際し、京都でわざわざ知人に依頼して永楽銭を集めていたとか、会津地方では永禄年間(1558~70)に貨幣を永楽銭に限定していたといった史実により確認できる。西日本と東日本での永楽銭の取り扱いに関する相違は、「東の絹・布、西の米」という古代からの物品貨幣の違いや、江戸時代における「東の金遣い、西の銀遣い」という貨幣利用の地域差とも符合しており、きわめて興味深い。
 関東地方を中心とする東日本では、数ある明銭のなかでも素材価値が安定的で形状・品質がほぼ一定していただけでなく、銭容・品格の面でも優れていた永楽通宝が基準銭貨としての地位を獲得した。そして、その他の渡来銭の流通価値は、永楽銭との対比で決定された。こうしたなかで、各種財物の価格も永楽銭を基準として表示・計算されるようになったほか、戦国大名による農民からの賦課取り立てに際しても、「永高」と称されるように永楽銭を基準として石高が計算された。
 永楽銭の使用に関し、なぜこのような地域差が生まれたのだろうか。この点に関しては通常、次の3点が指摘されることが多い。第1に、東日本の場合、銅銭の普及が西日本に比べてやや遅れた結果、唐・宋銭に対する選好度合いが相対的に低かった一方、銭形・銭文のはっきりした明銭が選好されたことが挙げられる。第2に、東日本は中国との経済関係が相対的にみて希薄なため、当地での貨幣流通事情に関する情報が不足していたことが指摘できる。第3には、西日本で好まれない明銭が、結果として東日本に大量に流入し、貨幣としての通用力を高めていったという事情がある。このほか近年、永楽銭を尊重する貨幣観は、北・中部関東の内陸部において独自に形成されたのではないかと主張する向きもある。
 その後、16世紀後半の永禄年間に至ると、関東地方に加え三河以西においても永楽銭を最高貨幣とする傾向が現れた。このころからまた、近畿以西でも永楽銭が基準貨幣としての地位を次第に占めるようになってきた。そして、慶長13年(1608)の徳川幕府による鐚銭化、すなわち流通価値が4分の1に減額されるまでの間、永楽銭は約30年間にわたって各種渡来銭の価値基準および租税、財物価格の計算基準として機能することになった。