「財政規律を最終的に失わせたのは、高橋財政ではなく馬場財政にあったのではないか」→日銀の見解如何 | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

「財政規律を最終的に失わせたのは、高橋財政ではなく馬場財政にあったのではないか」→日銀の見解如何

秘書です。

日銀史観は2.26事件の重要性を軽視しているのではないかと指摘しましたが、こうした日銀史観の原点と想われる論文を発見。日銀の見解そのものではないでしょうが、昨今の日銀幹部の歴史認識に合致していますね。着々と、日銀史観は形成されてきたんですね。


井手英策(2001)「新規国債の日銀引受発行制度をめぐる日本銀行・大蔵省の政策思想~管理通貨制度への移行期における新たな政策体系~」『金融研究・第20巻第3号』日本銀行金融研究所、2001年9月.
http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk20-3-6.pdf

「このように考えると、高橋財政への移行という転換期に直面した当局の政策思想は、その時点で合理的な判断に基づくものであったとしても、政策環境の転換がもたらす政策主体の関係変化に伴って必ずしも合理性を持たないものとなり得ることがわかる。だとすれば、軍部の政治的圧力や規範性の喪失もそのような制度と政策主体の因果関係の中で捉えられなければならないことになる。つまり、軍部の予算要求は日銀引受の導入がもたらした1つの帰結であると考えることができるのである(注115)。その意味では、自律的な政策反転のメカニズムを持たない日銀引受や調整インフレ論の場合、いくら制度的な抑制措置を講じてもそれが実施された後の制度変化によって歯止めとして機能し得ない可能性があることを忘れてはならないであろう。」

(注115) 井手[1998]に示したように、軍事費が突出していても予算総額が抑制されていればマクロ的な意味での財政の「規範性」は確保される。事実、緊縮政策(後期高橋財政)への転換過程では、継続費を利用した後年度負担の累積、会計間調整等の措置によって一般会計予算の圧縮が企図された。このような財政統制の手法は軍部予算増大の抜け道を用意することとなったし、巨額の後年度負担の形成によって、2.26事件の訪れを待つまでもなく以後の財政膨張を不可避のものとした可能性をはらんでいる。換言すれば、軍部の存在を前提としない現代においても、同様の政策手法によって640兆円ともいわれる政府長期債務が累積したのであり、その意味では、日銀引受の開始が破局的な政策的帰結をもたらす可能性は十分にあり得るのである

(同論文、p.199.)

→この論文に対して、浅井良夫氏は、「財政規律を最終的に失わせたのは、高橋財政ではなく馬場財政にあったのではないか」と指摘。賛成です。この浅井氏の指摘は、日銀ではどのように受け止められたのでしょうか。日銀史観の形成の中で、浅井氏の意見はどう反映されたのでしょうか?


井手論文「新規国債の日銀引受発行制度をめぐる日本銀行・大蔵省の政策思想~管理通貨制度への移行期における新たな政策体系~」に対するコメント
浅井良夫
http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk20-3-7.pdf

1.高橋財政の制度変更と財政規律の喪失

財政規律を最終的に失わせたのは、高橋財政ではなく馬場財政にあったのではないか。すなわち、馬場蔵相は「日本の軍事進出は日本の商権と経済力の拡大につながるから、国防費は不生産的経費と考えてはならない」と述べるなど、軍事費が生産的支出であると誤認していた1。この認識に基づいて、軍事費支出を別枠で処理することを認め、これが軍事費の突出につながって、その後の超インフレが引き起こされたのではないか。高橋蔵相が行った日銀引受のスキームに制度設計上のミスがあったことは否定しないが、高橋財政期の制度変更自体が必然的に超インフレを招いたとは考えにくい
高橋蔵相は、1936(昭和11)年度予算編成において、「公債の漸減により、軍部の財政膨張圧力に対抗し得る」として公債漸減方針を打ち出している。これに対して、石橋湛山は完全雇用に達するまでは国債増発を懸念する必要はないと、高橋の漸減政策を批判したが2、1937(昭和12)年になると、インフレ抑制論に転じ、財政膨張による悪性インフレを回避する方策として増税論を展開した3。石橋の情
勢認識は遅すぎたといわざるを得ないが、石橋が唱えたような増税政策を、早い時期に高橋が実施していれば、その後の財政規律の喪失を回避することができたようにも思われる。

(注略)