国会ではどのように応仁の乱が引用されてきたか? | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

国会ではどのように応仁の乱が引用されてきたか?

秘書です。
戦後、国会において、「応仁の乱」はどのような例えとして引用されてきたでしょうか?有識者のみなさんが考えている以上に、国会議員がしっかりと応仁の乱から教訓を導き出していません?



衆・教育基本法に関する特別委員会 平成18年05月30日
○門川参考人 皆さん、こんにちは。京都市の教育長の門川でございます。いつもお世話になっております。・・・
その京都にとりまして、明治維新は最大の危機でございました。町が半分焼けておりました。都の地位を失った町衆は本当に嘆き悲しみました。しかし、先人たちは決して嘆いてばかりではおられませんでした。町づくりは人づくりからである、子供さえしっかりと育てれば京都の未来は明るい、そういうことで、明治元年から、学校づくりに番組という、応仁の乱から続く自治の精神を生かした、新たにつくられた自治組織でもって、長老、リーダーたちが集まって学校づくりを始められます。

→京都のみなさんにとっては自治精神、自治組織のはじまりが応仁の乱のようです。

衆・法務委員会 平成13年11月16日
○植田委員・・・また、悪妻の誉れが高い、応仁の乱の原因にもなった足利義政、八代将軍義政の奥さんは日野富子というふうに歴史上語られていますが、これも当時の史料、「大日本史料」といいまして、東大史料編さん所が編さんしておる中でも日野夫人という形で出てきまして、足利富子というふうな例は一例もないわけでございます。

衆・法務委員会 平成11年07月30日
○達増委員 自由党の達増拓也でございます。・・・
東北地方というのは、平安時代の終わりころまでは完全に外国扱いされておりまして、日本ではなかった。最近に至るまでも、百三十年前、明治新政府の樹立に伴って、別の国をつくろうとして、独立戦争を起こして東北は失敗してしまったわけでありますけれども、歴史上外国扱いをされた期間は非常に長く、かつ、最近まで外国扱いをされていた。明治以前の日本の歴史の中で、日本人同士が戦争をしますと、それは戦争の大きさによって、応仁の乱とか承久の変とか、乱とか変とか呼ばれるのですが、東北相手の戦争については役という言葉が使われまして、前九年の役とか後三年の役。役というのは、元寇とか秀吉の朝鮮出兵とか、外国人と戦争するときに使われる言葉でありまして、そういう役と呼ばれた。私たち、歴史の教科書には今でもでしょうか、たしか前九年の役とか後三年の役とか、外国人扱いされているわけであります。

衆・予算委員会 平成09年02月19日
○橋本内閣総理大臣・・・その木と紙の文化で千二百年以上そこに首都が置かれ、そこで人々が暮らし、まあ応仁の乱なんかがありましても人々のはぐくみが続き、歴史と文化の中に今日も市民の生活の息づいている京都という町があります。それ以上古い歴史を持った奈良という町もあります。そうした歴史と文化、伝統の中に息づいてきた日本というものを私は次の世代にも伝えていきたいと思います。そして、それを卑下するものだとは私はとっておりません。

参・逓信委員会 平成06年11月24日
○岡利定君 ・・・
ごらんの方も多いと思いますけれども、「花の乱」は室町幕府の八代将軍の妻、日野富子を主人公として応仁の乱を描く大河ドラマであります。秀吉とかあるいは大石良雄といったような人の場合はみんなもよく知っておるわけでございますけれども、専門家とか歴史的な人は別として、一般的に余り知られていないといいますか、正確な知識を持っていない時代の話じゃないかなと思うわけであります

参・予算委員会 平成05年12月14日
○宮崎秀樹君・・・最後に総理、来年のNHKの大河ドラマは日野富子というのが主人公でございます。これは応仁の乱が舞台でございます。応仁の乱は総理の祖先が実はかかわっております。あの中の応仁記の中に有名な歌があるんです。「なれや知る 都は野辺の夕雲雀 上がるを見ても落つる涙は」。こういうことをがらがらやっていましても、一般の国民は不況にあえいでおるわけでございますから、政治改革も大事でございますけれども、まずやることは景気対策でございます。二度と平成の乱というようなことを言われないように、総理も歴史の一ページを飾る、こういうことでございますから、頑張ってやってください。

衆・大蔵委員会 平成02年05月24日
○上田(卓)委員 歴史的に見ても、先代天皇から皇位継承のための絶対的な成立条件ではなかったのではないかというふうに考えられるわけでございまして、実際、歴史的には、事実として、応仁の乱以降九代百八十年にわたって、いわゆる財政的理由によって大嘗祭が行われていないということのようでございますが、大嘗祭をしなかったら天皇ではないのですか、あるいは、半帝というようなものも書いてある本もあるのですけれども、その点についてはどのように考えておられますか。
○井関説明員 ただいま先生おっしゃいましたよに、応仁の乱の後、九代にわたりまして大嘗祭が行われておりませんが、これは主に財政上の理由あるいは戦乱のために行うべきものが行われなかったということでございまして、本来は行われるべきものである。それが財政上の理由等で行われなくても、やはり天皇であるということは間違いないわけであります。・・・

参・沖縄及び北方問題に関する特別委員会 昭和60年12月06日
○伊江朝雄君・・・この鐘は、今も政務次官が申されましたけれども、大体今から五百年余の昔でございますけれども、尚泰久という王様、これは日本の歴史で言うならば応仁の乱の十年ぐらい前に当たる古い時代でありますけれども、私がこの文章の解釈をくどくど言う必要はございませんけれども、要するに琉球国というのは南海の勝地なんだと、勝地というのは景色のいいところだという意味ですね

参・商工委員会 昭和54年05月31日
○楠正俊君・・・次に、西陣織物工業組合のある京都市は、わが国の代表的な織物産地ですが、その起源は八世紀にさかのぼり、十五世紀の応仁の乱後にその基礎が築かれたと言われております。

参・外務委員会 昭和53年03月30日
○戸叶武君・・・本当に気の毒だと思うのは、やはり私がおととい聞いたようなことが依然として福田派の内部の会合においても公然と言われておるじゃありませんか。福田総理大臣と園田の物の考え方は違うんだ、二人の分裂を通じて揺すぶって次期の政権抗争の方向づけをやろうというたくらみかもしれないけれども、いかに戦国騒乱の時代でも、このような武士道も何もあったものでないような混乱状態は、いまだかつて応仁の乱前後以外にないと私は思うんです。乱世です。こういう私は日本の悲劇的な段階においてあなたを狂わしていると思いますが、私たちは傍観するわけにはいかぬ。介入してやっぱり国民の名において、果たしてこの内閣に外交権を持たしていいかどうか、その審判をやらなけりゃならないような羽目にならないとも限らないと思うんです。ふざけたことはいいかげんにしてもらいたい。私たちはそういう意味において内閣に外交権を与えているというのは、もっと主権者としての国民の合憲を得られるような、納得ずくが得られるような内閣としての想定のもとに与えているのであって、このように乱れに乱れ、責任も何もない、党があって眼中に国家なく、次期政権の野望があって国の運命に対しての方向づけの責任がない、こんなばかげた内閣は日本始まって以来いまだない

→今は、「武士道も何もあったものでないような混乱状態」としての応仁の乱なのか?

→現政権の「国の運命に対しての方向づけの責任がない」ことへのいら立ちがあるのでは?


衆・社会労働委員会 昭和44年07月08日
・・・世間では、今日の医療問題を評して応仁の乱だというふうなことがいわれております。
麻の乱れるがごとく乱れてどうしようもないではないか、解決の端諸があるのかということに対しては、これが解決の端諸だということを、明確に指摘できる方はきわめて少ないというより、ほとんどいらっしゃらないのではないかと私は思うのであります。そういう場合に、非常にむずかしいことは、まず基本から考えるという姿勢というものが何よりも必要なのではないかと私は思うのであります。多少失礼な言い方かもしれませんが、抜本改正案ということば一つにいたしましても、一体抜本の本のほうは何か、そうして何を抜くのかということになりますと、はたと当惑したということになるのが今日の健康保険ではないか、そう思うわけであります。

→応仁の乱に例えられた医療問題は、「これが解決の端諸だということを、明確に指摘できる方はきわめて少ないというより、ほとんどいらっしゃらないのではないかと」いう状況。はいまでもあてはまるのか?復興問題はこの意味で、昭和44年に応仁の乱に例えられた医療問題に似ているのか?

衆・外務委員会 昭和33年06月25日
○帆足委員・・・私は中国四百余州をおおむね歩いて参りましたが、北京郊外の農村で大体明治時代の農村というところです。西安の奥の方に行くと、大体戦国時代くらいの水準になりまして、辺境地帯に参りますと、大体応仁の乱時代の生活をしておるのであります。これらのおくれた民族が、初めて立ち上って、近代国家を作り、近代産業に進もうとしておるのでありますから、いわば政治の面においても西郷隆盛、桂小五郎、吉田松陰、勝海舟のような心境の連中が今うじゃうじゃおるという状況で、新興国家の意気当るべからずというような民族の心理もやはり理解することが、私は必要でなかろうかと思います。

→「新興国家の意気当るべからずというような民族の心理」の関連での、応仁の乱に対する肯定的評価。

衆・内閣委員会公聴会 昭和32年05月08日
○森清人公述人・・・学校に行って歴史を習いますと、さあ応仁の乱だ、何々の乱だ、何何の乱だと戦争の歴史ばかり習った。それからまた先生が力説、強調されましたのは武勇伝です。壇の浦の戦いとか、扇の的とか、宇治川の先陣争いとか、そういうような武勇伝的な、軍国主義的な教育をわれわれは受けてきたのです。

→つまり、復興構想会議議長は「戦争の歴史」と民主主義を比較したということ?

衆・地方行政委員会 昭和29年02月26日
○門司委員 ・・・たとえば京都におけるあのずつと長い間続いておつた郷土組織のようなものです。応仁の乱のときにすでにできておるが、応仁の乱に長い間京都が戦火の巷にあつて、治安が確保されなかつた。そのときに京都の市民はこれを郷士委員会と称して、あそこに自警団組織をつくつて、そうしてお互いの町内の自治はこれが守るということをちやんとやつておる。そのことは応仁の乱以来ずつと続いておる。・・・最近においても最も大きな事例としてあげられるのは、大正十二年の大震災である。戒厳令がしかれている。警察の力だけではだめだということで、戒厳令をしいておる。戒厳令をしいても、なおかつ治安を確保するために、おのおのの町内にちやんと自警団をこしらえて、そうしてお互いが自治を守ろう、治安を維持しようということで協力しておる。

→自治のはじまりとしての応仁の乱。