国民総力戦:岩手日報HPより―家を失ったまま不眠不休 県立大船渡病院スタッフ
家を失ったまま不眠不休 県立大船渡病院スタッフ
(2011/03/22)
東日本大震災で大きな被害を受けた大船渡市の県立大船渡病院(八島良幸院長)で、医療スタッフの住居確保が課題になっている。津波で家を失った医師や看護師は入居先のめどが立たないまま、院内に泊まり込みで被災者の救急対応などに当たっている。市内のアパートや宿泊施設は津波で崩壊。家族の安否さえ分からない職員もいる中、先の見えない不安を抱えながら不眠不休の業務が続く。
避難生活で体調を崩し運び込まれる被災者、薬を求める長い列。大震災から10日がたち、医師や看護師に疲労の色がにじむ。
同病院では、医師や看護師ら約150人が津波で帰る家を失ったり、ガソリン不足で帰宅できない人も。院内の診療ベッドや処置台、椅子、床に敷いた段ボールの上で夜を過ごしている。津波で医師公舎や市内のアパート、宿泊施設の多くが損壊。被災した職員の住まいのめどは立っていない。
村田幸治事務局長は「寝ずの勤務で疲弊はピークに達している。できるだけ休ませながら病院機能を維持したい」と話す。内陸部からは医師や看護師、薬剤師らが応援に駆け付け、業務の負担軽減を図っている。
しかし、県立高田病院が被災したため、陸前高田市の患者も薬を求めて大船渡病院に押し寄せる。避難生活が長引くことで今後、救急患者が増えることも予想される。薬や入院患者の食料、暖房用の重油や寝具の確保、家族の安否など職員の不安は尽きない。
八島院長は「職員はみんな頑張っているが環境が劣悪だ。衣食住の特に住を安定させたい」と解決策を模索するが、なかなか妙案は見いだせそうにない。
【写真=救急対応に追われる医師や看護師。震災で住まいを失った職員も多い=大船渡市・県立大船渡病院】
物資も医療も「次はいつ…」 集落への支援行き届かず
(2011/03/22)岩手日報
東日本大震災の被災地のうち、孤立状態に近い集落には医療支援が十分に行き届いていない。
がれきに阻まれ車両での移動が困難な上、住民も交通手段がない。避難所では徐々に生活物資が行き渡り始め、日赤や陸上自衛隊などの医療チームが精力的に巡回診療を続けている。しかし、孤立状態に近い人たちは診療を受ける機会も限られている。
「切り傷一つでも怖いですよ」。釜石市箱崎町の野川前地区で21日、救援に訪れた陸上自衛隊から生活物資を受け取った板金業を営む矢野秀俊さん(41)は今一番必要な物に「消毒薬」を挙げた。
矢野さんの家には同地区の20人が避難し、寝食を共にしている。15日からがれき撤去が始まり、ようやく車が通れるだけの道が確保された。生活物資は朝夕2回届くようになった。
しかし、衛生面はいまだ不安が残る。同地区は多くの家屋が倒壊を免れたが、ガソリン不足で車での移動は困難だ。物資が比較的豊富で医療が受けやすい避難所と異なり、物資も医療も救援を待つしかない。
矢野さんは「昨日初めて赤十字の方が車で来てくれ、助かった。次はいつ来てくれるのだろうか」と不安げに話していた。
【写真=「消毒薬が欲しい」と自衛隊員に話す矢野秀俊さん(右)=21日午前、釜石市箱崎町】
長引く避難、弱る高齢者 心身の不調増加
(2011/03/22)岩手日報
避難生活の長期化に伴い、小規模避難所では高齢者ら災害弱者を中心に心身の不調を訴える人が増えている。沿岸の避難所には暖房や移動に必要な燃料がほとんど届かないところもある。携帯電話も不通のままで、被災者は「万が一の事態が起きたらどうしよう」と不安は大きい。
陸前高田市広田町の六ケ浦地区は津波で一部家屋が全半壊し、住民125人のうち集会所の六ケ浦会館には約25畳に約30人が寝泊まりする。残る約90人は破壊を免れた家々に5~15人ずつ分宿する。
同地区は高齢化率が高く、避難生活が長引くにつれ体調不良や不眠、精神的に不安定になる人が増加。睡眠補助薬をもらって、やっと眠りに就く人も少なくない。
物資配給はあるが、食料はほぼ自弁だ。燃料はこれまでほとんど届いていない。各自持ち寄った灯油と練炭で暖を取り、破損した車の燃料を抜き取って何とかしのいでいる。
自衛隊や日赤が無事を確認に訪れるが、燃料がなく電話も使えない中で急病や予期せぬ事故にどう対処するか、住民は不安を募らす。
小松スミ子さん(77)は「寒さで血圧が気になるし、インフルエンザが広がればどうしよう」と漏らす。抵抗力が落ちた被災者を暖房や医療環境などが比較的恵まれている大規模避難所や、市外の病院に移送しては―という声も聞かれる。
ただ、同市米崎町の仮診療所で事務に追われる千葉徳次・市健康推進課長補佐は「避難所の多くは定員いっぱいで、移送に必要なガソリンも乏しい。どの避難者を移すかの優先順位決定にはヘルパーらの支援も必要だが、みんな被災者。人員も不足している」と苦しい実情を説明する。
六ケ浦会館で暮らす畠山のぶこさん(62)もヘルパーだが、被災し身動きが取れない。「地域で結束してしのいできたが、今後何か起きたらどうするのか。切羽詰まっている。こうした小さい集落への支援も拡大してほしい」と求める。
帰されても生きていけない
今後の生活を誰に頼れば―。避難所生活が長引く中、高齢者に生活再建へ向けた不安が広がっている。
宮古市の津軽石小で避難所生活を送る竹山キエさん(75)=同市津軽石、山崎イネさん(73)=同=は、津波で自宅が半壊。被災した家から日用品を持ち帰ろうとしたが、足元はがれきが広がり、弱った足腰ではかなわなかった。
室内には土砂が流入し、この家に住むためには大幅な補修が必要とみられる。だが、年金暮らしではどのように工面していいのか、めども立たない。
夫と2人暮らしの竹山さんは「何とか1週間は気を張っていたけれど、これからどうしようか考えると夜も眠れない」と漏らす。親戚も被災しているため、身を寄せる場も見通せない。
自宅が全壊した他の被災者に比べ、住宅支援に格差が出ないかも不安を募らせる。一人暮らしの山崎さんも「ここ(避難所)にいる分には生き延びていられるが、突然家に帰されたら生きていけない」と話す。
「全部流された方が安心だった」。つぶやく竹山さんに、山崎さんが力なくうなずいた。
【写真㊤=燃料もない、電話も通じない。心身の不調を訴える高齢者が増え始め、住民の不安が募る=陸前高田市広田町・六ケ浦会館】
【写真㊦=今後の生活に不安を募らせる竹山キエさん(中央)、山崎イネさん(右)ら被災者=宮古市・津軽石小】
真心届ける若い力 盛岡の支援チーム活躍
(2011/03/22)岩手日報
盛岡市内の若者による市民グループなどでつくる被災地支援チーム「SAVE IWATE」(寺井良夫代表)は、大津波で壊滅的な被害を受けた沿岸地域の支援を始めている。21日は大槌町などに支援物資を送り届けた。先に被災地入りした仲間が現地の情報を整理し被災者ニーズを把握するのが同チームの特徴。盛岡の地元企業や知人らにも支援の輪が広がっており、人のつながりを力に被災地を支えている。
「よくここまできてくれた。物よりなによりも、その気持ちがうれしい」。被災した大槌町吉里吉里の特別養護老人ホーム「らふたぁヒルズ」の芳賀陽一理事長はうっすらと涙を浮かべてつぶやいた。
同チームの3人は21日、「先遣隊」の下玉利元一さん(32)=盛岡市在住=ら4人と合流。同施設に調味料や毛布などを送り届けた。同日は避難所となっている大船渡市盛町のリアスホールにも衣類や下着などの支援物資を運び込んだ。
下玉利さんらは15日から大船渡市内に入り、地元有志と協力して、情報収集にあたっている。現場の状況や必要とされている物資の情報を、衛星携帯電話などで盛岡にいる仲間に伝えている。
「小さな避難所の情報がまだまだ少ない。そこまで物を運ぶ人、車、燃料も十分ではないが、自分たちのできることを何とかやっている」と現場の実情を訴える。
同チームは、盛岡市の鉈屋町かいわいのまちづくりに取り組む「もりおかワカものプロジェクト」のメンバーや市民団体の有志らが中心となり、13日に立ち上げた。活動を紹介するホームページをつくり、先遣隊と連絡を取りながら避難者の名簿や救援物資の募集情報などを掲載。電話やツイッター、ブログなどでも友人、知人に協力を呼び掛けた。
この動きに呼応した同市大慈寺町の酒造会社あさ開は、敷地内の酒蔵を物資の仕分け所として開放。他の地元企業からも、衛生用品の提供や輸送用トラックの貸し出しなどの支援が寄せられた。
同市鉈屋町周辺の商店街や住民も協力。情報を聞いて雫石町内から自転車で駆けつけた学生、近所の仲間と家にある衣服などを持ち寄った主婦、岡山県倉敷市から物資を積んだトラックを走らせてきたメンバーの知人―。はじめは数人だったボランティアも日を追うごとに増え、50人以上までになった。
17日から実際に避難所などへの生活用品や衣類、自転車などの輸送を続けており、今後は被災地へのスタッフ派遣も視野に入れて活動する考えだ。
寺井代表は「今後は被災地での支援の受け皿役がますます重要になってくる。いち早く必要なものを必要な場所に届けたい」と力を込める。
【写真=被災した特別養護老人ホールに物資を届ける「SAVE IWATE」のメンバーら=21日午後5時55分、大槌町吉里吉里】
避難所に希望の歌声 大船渡中卒業生が合唱
(2011/03)岩手日報
東日本大震災で被災した大船渡市の大船渡中で21日、卒業式を終えた生徒たち104人が、避難所になっている体育館で、「いきものがかり」のヒット曲「YELL(エール)」を合唱した。
体育館には200人が避難中。「…さよならは悲しい言葉じゃない それぞれの夢へと僕らをつなぐエール…」。力強いリフレインに、お年寄りも涙ぐんで耳を傾けた。
指揮をした赤崎陽康さん(15)は「被災した皆さんを元気づけたいと思って歌った。最後にみんなで一緒に歌えて良かった」と涙ぐんだ。被災者の大和田恭子さん(67)は「きずなを強くして、それぞれの道へ進んで」と目を細めていた。
(2011/03/22)
東日本大震災で大きな被害を受けた大船渡市の県立大船渡病院(八島良幸院長)で、医療スタッフの住居確保が課題になっている。津波で家を失った医師や看護師は入居先のめどが立たないまま、院内に泊まり込みで被災者の救急対応などに当たっている。市内のアパートや宿泊施設は津波で崩壊。家族の安否さえ分からない職員もいる中、先の見えない不安を抱えながら不眠不休の業務が続く。
避難生活で体調を崩し運び込まれる被災者、薬を求める長い列。大震災から10日がたち、医師や看護師に疲労の色がにじむ。
同病院では、医師や看護師ら約150人が津波で帰る家を失ったり、ガソリン不足で帰宅できない人も。院内の診療ベッドや処置台、椅子、床に敷いた段ボールの上で夜を過ごしている。津波で医師公舎や市内のアパート、宿泊施設の多くが損壊。被災した職員の住まいのめどは立っていない。
村田幸治事務局長は「寝ずの勤務で疲弊はピークに達している。できるだけ休ませながら病院機能を維持したい」と話す。内陸部からは医師や看護師、薬剤師らが応援に駆け付け、業務の負担軽減を図っている。
しかし、県立高田病院が被災したため、陸前高田市の患者も薬を求めて大船渡病院に押し寄せる。避難生活が長引くことで今後、救急患者が増えることも予想される。薬や入院患者の食料、暖房用の重油や寝具の確保、家族の安否など職員の不安は尽きない。
八島院長は「職員はみんな頑張っているが環境が劣悪だ。衣食住の特に住を安定させたい」と解決策を模索するが、なかなか妙案は見いだせそうにない。
【写真=救急対応に追われる医師や看護師。震災で住まいを失った職員も多い=大船渡市・県立大船渡病院】
物資も医療も「次はいつ…」 集落への支援行き届かず
(2011/03/22)岩手日報
東日本大震災の被災地のうち、孤立状態に近い集落には医療支援が十分に行き届いていない。
がれきに阻まれ車両での移動が困難な上、住民も交通手段がない。避難所では徐々に生活物資が行き渡り始め、日赤や陸上自衛隊などの医療チームが精力的に巡回診療を続けている。しかし、孤立状態に近い人たちは診療を受ける機会も限られている。
「切り傷一つでも怖いですよ」。釜石市箱崎町の野川前地区で21日、救援に訪れた陸上自衛隊から生活物資を受け取った板金業を営む矢野秀俊さん(41)は今一番必要な物に「消毒薬」を挙げた。
矢野さんの家には同地区の20人が避難し、寝食を共にしている。15日からがれき撤去が始まり、ようやく車が通れるだけの道が確保された。生活物資は朝夕2回届くようになった。
しかし、衛生面はいまだ不安が残る。同地区は多くの家屋が倒壊を免れたが、ガソリン不足で車での移動は困難だ。物資が比較的豊富で医療が受けやすい避難所と異なり、物資も医療も救援を待つしかない。
矢野さんは「昨日初めて赤十字の方が車で来てくれ、助かった。次はいつ来てくれるのだろうか」と不安げに話していた。
【写真=「消毒薬が欲しい」と自衛隊員に話す矢野秀俊さん(右)=21日午前、釜石市箱崎町】
長引く避難、弱る高齢者 心身の不調増加
(2011/03/22)岩手日報
避難生活の長期化に伴い、小規模避難所では高齢者ら災害弱者を中心に心身の不調を訴える人が増えている。沿岸の避難所には暖房や移動に必要な燃料がほとんど届かないところもある。携帯電話も不通のままで、被災者は「万が一の事態が起きたらどうしよう」と不安は大きい。
陸前高田市広田町の六ケ浦地区は津波で一部家屋が全半壊し、住民125人のうち集会所の六ケ浦会館には約25畳に約30人が寝泊まりする。残る約90人は破壊を免れた家々に5~15人ずつ分宿する。
同地区は高齢化率が高く、避難生活が長引くにつれ体調不良や不眠、精神的に不安定になる人が増加。睡眠補助薬をもらって、やっと眠りに就く人も少なくない。
物資配給はあるが、食料はほぼ自弁だ。燃料はこれまでほとんど届いていない。各自持ち寄った灯油と練炭で暖を取り、破損した車の燃料を抜き取って何とかしのいでいる。
自衛隊や日赤が無事を確認に訪れるが、燃料がなく電話も使えない中で急病や予期せぬ事故にどう対処するか、住民は不安を募らす。
小松スミ子さん(77)は「寒さで血圧が気になるし、インフルエンザが広がればどうしよう」と漏らす。抵抗力が落ちた被災者を暖房や医療環境などが比較的恵まれている大規模避難所や、市外の病院に移送しては―という声も聞かれる。
ただ、同市米崎町の仮診療所で事務に追われる千葉徳次・市健康推進課長補佐は「避難所の多くは定員いっぱいで、移送に必要なガソリンも乏しい。どの避難者を移すかの優先順位決定にはヘルパーらの支援も必要だが、みんな被災者。人員も不足している」と苦しい実情を説明する。
六ケ浦会館で暮らす畠山のぶこさん(62)もヘルパーだが、被災し身動きが取れない。「地域で結束してしのいできたが、今後何か起きたらどうするのか。切羽詰まっている。こうした小さい集落への支援も拡大してほしい」と求める。
帰されても生きていけない
今後の生活を誰に頼れば―。避難所生活が長引く中、高齢者に生活再建へ向けた不安が広がっている。
宮古市の津軽石小で避難所生活を送る竹山キエさん(75)=同市津軽石、山崎イネさん(73)=同=は、津波で自宅が半壊。被災した家から日用品を持ち帰ろうとしたが、足元はがれきが広がり、弱った足腰ではかなわなかった。
室内には土砂が流入し、この家に住むためには大幅な補修が必要とみられる。だが、年金暮らしではどのように工面していいのか、めども立たない。
夫と2人暮らしの竹山さんは「何とか1週間は気を張っていたけれど、これからどうしようか考えると夜も眠れない」と漏らす。親戚も被災しているため、身を寄せる場も見通せない。
自宅が全壊した他の被災者に比べ、住宅支援に格差が出ないかも不安を募らせる。一人暮らしの山崎さんも「ここ(避難所)にいる分には生き延びていられるが、突然家に帰されたら生きていけない」と話す。
「全部流された方が安心だった」。つぶやく竹山さんに、山崎さんが力なくうなずいた。
【写真㊤=燃料もない、電話も通じない。心身の不調を訴える高齢者が増え始め、住民の不安が募る=陸前高田市広田町・六ケ浦会館】
【写真㊦=今後の生活に不安を募らせる竹山キエさん(中央)、山崎イネさん(右)ら被災者=宮古市・津軽石小】
真心届ける若い力 盛岡の支援チーム活躍
(2011/03/22)岩手日報
盛岡市内の若者による市民グループなどでつくる被災地支援チーム「SAVE IWATE」(寺井良夫代表)は、大津波で壊滅的な被害を受けた沿岸地域の支援を始めている。21日は大槌町などに支援物資を送り届けた。先に被災地入りした仲間が現地の情報を整理し被災者ニーズを把握するのが同チームの特徴。盛岡の地元企業や知人らにも支援の輪が広がっており、人のつながりを力に被災地を支えている。
「よくここまできてくれた。物よりなによりも、その気持ちがうれしい」。被災した大槌町吉里吉里の特別養護老人ホーム「らふたぁヒルズ」の芳賀陽一理事長はうっすらと涙を浮かべてつぶやいた。
同チームの3人は21日、「先遣隊」の下玉利元一さん(32)=盛岡市在住=ら4人と合流。同施設に調味料や毛布などを送り届けた。同日は避難所となっている大船渡市盛町のリアスホールにも衣類や下着などの支援物資を運び込んだ。
下玉利さんらは15日から大船渡市内に入り、地元有志と協力して、情報収集にあたっている。現場の状況や必要とされている物資の情報を、衛星携帯電話などで盛岡にいる仲間に伝えている。
「小さな避難所の情報がまだまだ少ない。そこまで物を運ぶ人、車、燃料も十分ではないが、自分たちのできることを何とかやっている」と現場の実情を訴える。
同チームは、盛岡市の鉈屋町かいわいのまちづくりに取り組む「もりおかワカものプロジェクト」のメンバーや市民団体の有志らが中心となり、13日に立ち上げた。活動を紹介するホームページをつくり、先遣隊と連絡を取りながら避難者の名簿や救援物資の募集情報などを掲載。電話やツイッター、ブログなどでも友人、知人に協力を呼び掛けた。
この動きに呼応した同市大慈寺町の酒造会社あさ開は、敷地内の酒蔵を物資の仕分け所として開放。他の地元企業からも、衛生用品の提供や輸送用トラックの貸し出しなどの支援が寄せられた。
同市鉈屋町周辺の商店街や住民も協力。情報を聞いて雫石町内から自転車で駆けつけた学生、近所の仲間と家にある衣服などを持ち寄った主婦、岡山県倉敷市から物資を積んだトラックを走らせてきたメンバーの知人―。はじめは数人だったボランティアも日を追うごとに増え、50人以上までになった。
17日から実際に避難所などへの生活用品や衣類、自転車などの輸送を続けており、今後は被災地へのスタッフ派遣も視野に入れて活動する考えだ。
寺井代表は「今後は被災地での支援の受け皿役がますます重要になってくる。いち早く必要なものを必要な場所に届けたい」と力を込める。
【写真=被災した特別養護老人ホールに物資を届ける「SAVE IWATE」のメンバーら=21日午後5時55分、大槌町吉里吉里】
避難所に希望の歌声 大船渡中卒業生が合唱
(2011/03)岩手日報
東日本大震災で被災した大船渡市の大船渡中で21日、卒業式を終えた生徒たち104人が、避難所になっている体育館で、「いきものがかり」のヒット曲「YELL(エール)」を合唱した。
体育館には200人が避難中。「…さよならは悲しい言葉じゃない それぞれの夢へと僕らをつなぐエール…」。力強いリフレインに、お年寄りも涙ぐんで耳を傾けた。
指揮をした赤崎陽康さん(15)は「被災した皆さんを元気づけたいと思って歌った。最後にみんなで一緒に歌えて良かった」と涙ぐんだ。被災者の大和田恭子さん(67)は「きずなを強くして、それぞれの道へ進んで」と目を細めていた。