最小不幸社会:不幸を量的に合算できるのか、基準化できない不幸はどういう扱い? | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

最小不幸社会:不幸を量的に合算できるのか、基準化できない不幸はどういう扱い?

秘書です。

最大多数の最大幸福の功利主義の問題は、

個人的価値である善(good)の合算が社会的正義(right)なのかというところ。

個人的価値を合算可能なものとする発想のなかに、標準化され、無個性な個人が発生する。

市場原理主義批判をする人たちが批判したいのはここのはず。

最小不幸社会というのも、この点では同じなのでは?

人の不幸はどうして計量化可能なのか?合算可能なのか?

計量化の基準は誰がつくるのか。


不幸についての何かの客観的指標がでてきた瞬間に、その指標からもれた不幸は、行政にとっては不幸ではなくなってしまうのではないか※。

行政が認める不幸以外の不幸は、個人の心理的問題にされてしまう(自己責任!)。そして、行政は恣意的に何が不幸かを指定できる。

行政の裁量によって、何が不幸かが決まってしまう。

そうなると、存在しない不幸を不幸と定義すれば、日本から不幸は消滅し、いま不幸だと思っている人はその人が悪いという社会になる。

選挙で成果を誇示するために、そうなるリスクがありませんか。




(※たとえば、天下り先からの形式的な天下り要請がないことを天下りの定義にすれば、この世から天下りがなくなるのと同じようなことです)