『「経済人」の終わり』読書感想:20世紀前半の「大転換」と21世紀の「大転換」 | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

『「経済人」の終わり』読書感想:20世紀前半の「大転換」と21世紀の「大転換」

秘書です。
今朝の「サンデーモーニング」でドラッカーの『「経済人」の終わり』がとりあげられていました。
かつて、チャーチル首相も激賞した名著です。
番組とはちょっと違う視点になりますが、読書感想です。


Drucker(1939)『「経済人」の終わり』では、「旧秩序の崩壊と新秩序の欠落による純なる絶望」と当時のドイツ国民の状況を表しています 。この定義は、いまの日本にぴったりじゃないでしょうか。

同書に著された当時のドイツ国民の以下のようなものです。

「この数年、この経済発展への拒絶反応が無制限に拡がりつつある。もはや、経済発展の神様に対してはお愛想さえ聞かれない。その代わりに、恐慌に対する安定、失業に対する安定、経済発展に対する安定など、安定が普通かつ最高の目標となっている。経済発展が安定を脅かすのであれば経済発展のほうを捨てる。」

「大衆は、経済的自由が恵まれざる者の存在をなくすことができなかったために、それを社会的に有益なものと考えることをやめた。失業の脅威、恐慌の危険、経済的犠牲を遠ざけてくれるのであれば、まさに経済的自由の放棄のほうが受け入れられ、さらには歓迎されるようになった。」

Druckerによれば、「ファシズム全体主義は、すでに崩壊していた「経済人」の概念を否定することはできた。しかし、そのあとを継ぐべき新しい人間像は生み出していない。」

ここがこの本の一番の命題です。

新しい人間像を提示できないファシズム全体主義が代わりに提示したのが「組織」でした。

Druckerは「ファシズム全体主義は信条と秩序の代役に「組織」を充てることによって、問題解決のためのお守りにしようということである。」と指摘しています 。

ファシズム期に「組織」を発見したことが、この本の重要ポイントです。

日本においても、第一次世界大戦後以後、世界の戦争は「国家総力戦」になると認識されつようになり、産業化・組織化の重要性が政治指導者にも認識され、30年代から40年代にかけての戦時体制を経て、戦後の高度経済成長期に続いていく、まさにファシズム期は「組織」の時代のはじまりだったといえるでしょう 。

ドラッカー研究の第一人者の三戸公(1979)『ドラッカー 新しい時代の予言者―経済人の終焉から傍観者の時代まで』では、伝統的な共同体の解体と組織中心社会への移行について以下のように指摘されています。

「生産をするのが個人でなく組織であるとすれば、かつての伝統的社会とは異なり、個人の社会的身分・社会的威光・社会的権力は個々人の作業workとは結びつかなくなり、それらは組織の分解部分としての職務jobと結びつくだけとなる。・・・個々人の社会的身分・社会的威光・社会的権力は、彼が組織と結びつくことを通して、つまり、組織内部においていかなる職務を担当するかによって決定されるのである。産業化はその人が成長してきた社会的土壌から彼を文字どおり引き抜き、彼の伝統的価値観を失わしめる。かくして、かつての伝統的な共同体は解体する。」。

三戸公先生の指摘にあるように、個人の地位・機能・所得を規定し、決定する要因は何であるかによって、一つの社会の特徴を把握することができるとした場合 、20世紀前半の「大転換」は、個人の社会的地位・社会的機能・所得を決めるものは、いかなる財産を持つかではなく、どの組織体に属し、組織の中のどの地位についているかによって決まってくる社会への転換とみることができるでしょう 。

では、冷戦後の変化、90年代以後の「大転換」をどう見ることができるのか。

冷戦後の変化をドラッカーはどう見ていたのか?

Drucker(1993)『ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか』は、Druckerは知識社会における生産手段は知識であるとします 。主要な生産手段は土地と労働から知識になります。

知識社会では、知識労働者の組織間の移動はますます容易となり、また、組織の指揮はボスと部下の関係ではなく、僚友によるチームとなります。

これこそが現代の最も大きな変化でしょう。

ドラッカーと親交のあったカール・ポラニーが『大転換』で指摘しているように19世紀の市場社会とは人と土地と貨幣を市場に組み入れて商品化したとするならば、知識社会は人と土地はもう市場からはいりません、といいはじめているのではないか?

Polanyi(1944)『大転換』は、20世紀前半において19世紀文明(バランス・オブ・パワー・システム、国際金本位制、自己調整的市場、自由主義的国家、このうち19世紀的文明の源泉であり母体といえるのは自己調整的市場である)の崩壊が世界的な変革をもたらすといいます。この19世紀文明の崩壊が「大転換」です。Polanyiは、20世紀前半の世界を「経済システムが社会に命令するのをやめ、逆に経済システムに対する社会の優位が確保されつつある」と、市場経済の拡張とこれに対する社会の防衛運動の「二重運動(double movement)」が存在すると指摘しました 。

Polanyiはいいます。本来、市場は社会の一部であり、市場に対する社会の優位が確保されていました。しかし、自己調整市場が社会を支配しはじめます。自己調整市場は、明らかに商品でない労働(生活そのものの一部であるような人間活動の別名)、土地(自然の別名)、貨幣(購買力の表象)を商品とします。それはまったくの擬制(fiction)です 。社会の人間的自然的実体が粗暴な擬制のシステムという悪魔の挽臼の破壊力から保護されなければ、いかなる社会も擬制のシステムの力に耐えることはできません 。

19世紀近代社会におけるダイナミクスは、市場拡張運動とその拡張を阻止しようとする社会の防衛運動の二重の運動(double movement)によって支配され、Polanyiは、20世紀前半に「経済システムが社会に命令することをやめ、逆に経済システムに対する社会の優位が確保されつつある。」として、これを大転換であるとしました 。

しかし、市場に対する社会の防衛運動としての二重運動(double movement)はその後も続いていると考えられます。21世紀の混迷を市場と社会の二重運動(double movement)」の観点から捉えたらどうなるか?
21世紀の今日、市場原理批判を繰り返す人は、この市場から人と土地が排除されつつあることをどう見るのか。人を社会へ、土地へ自然へと再包摂する積極的戦略をなぜ打ち出さないのか?

ところで、Druckerは、組織とは共通の目的のために働く専門家からなる人間集団であり、これに対し、社会やコミュニティや家族は、言語、文化、歴史、地域など、人間を結びつける紐帯によって規定される、としています 。さらに、Druckerは社会やコミュニティや家族は基本的に「維持機関」であり、それらは安定を求め、変化を阻止し、あるいは少なくとも減速しようとするが、組織は「変革機関」である、とします 。しかし、終身雇用制のもとで日本の組織は疑似コミュニティ化して「維持機関」となり、変化を阻止しようとしているのではないか?

ヒエラルヒー組織からネットワーク組織へ、そして組織の外における社会への包摂がめざすべき方向ではないでしょうか。(社会への包摂のキーとしてなぜ、本格的な地域通貨(政府の通貨発行権の分権としての)が提案されないのか?地域通貨がTPP体制下の地域社会防衛との関連で議論されないのか?)

Druckerは、知識社会は言葉と思想にかかわる知識人と、人と仕事にかかわる組織人に二分されるとします。しかし、ネットワークの時代ととらえるならば、このような二分法を超えると考えられます。

知識だけでは新しい価値は生まれないでしょう。人と人との出会い、新しい結合がなければ付加価値は生まれないでしょう。言葉や思想にかかわる知識人は、同時に、人と仕事にかかわる組織人の要素を持つ時代になるはずです。

三戸公先生は、「調整し、統合し、判断し、想像する」ことを機械により代替することのできない人間特有のすぐれた能力とします。

そこに必要とされるのは「英知・徳」でしょう。21世紀の閉塞の打破は、「富・地位」を動機とする人間像から「英知・徳」を動機とする人間像への大転換を起こすことにあるのではないでしょうか。

以上、日曜朝の読書感想でした。