権力共有国会:98年ねじれ国会(金融国会)、あのとき、誰が何を考えていたのか | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

権力共有国会:98年ねじれ国会(金融国会)、あのとき、誰が何を考えていたのか

「志士の目政治史研究会」です。
志士の目にあります「権力共有国会」論。その萌芽ともいうべき、98年金融国会の歴史をふりかえってみましょう。



(1)あのとき何があったのか

98年の臨時国会では自民党と民主党の「政策新人類」といわれる若手議員が注目されました。「政策新人類」の主導により、9月の臨時国会で「現行憲法下ではおそらく前例がない」(衆院事務局)ことが発生しました。それは、臨時国会最大の政治課題であった金融再生関連法案について、自民党は野党案を「丸のみ」して、野党案をもとに与野党で共同修正したことです。


(2)98年金融国会における内閣・与党・野党のスタンス

・内閣=「イデオロギーと関係のない法案の修正に柔軟」
・与党(自民党)=「閣議決定前の党内調整の簡略化」
・野党(民主党)=「重要法案修正でも総理の責任を問わず」

以下の深谷隆・自民党総務会長の発言(『毎日新聞』98年10月23日)は、権力共有国会の核心をついています。

「自分たちの案に修正を加えることは自らの欠点を示すことになる、といった考え方は今日の時代ではもう古い。柔軟に対応するということ。そのかわり、野党も、なにかあると政局にしようとしたり、党利党略で動くことのないよう、互いに責任を負うことを自覚してもらわなければならない」


(3)内閣・与党の関係

 98年7月、森喜朗自民党幹事長は以下のように語っています。(『日経新聞』98年7月28日)

「首相は党総裁として自由闊達にものがいえるようにしたい。政務調査会、総務会を通らないとダメだ、役所にもらった紙以外にモノが言えない、というのではおかしい」

党側が内閣の独自性を容認する動きがみられました。その具体例として、例えば、小渕政権の大型減税方針への政策転換についても、8月4日の宮沢首相と自民党税調の協議の場で、党税調最高顧問の山中貞則議員の「首相までやった者が三顧の礼にこたえて蔵相を引き受けたんだ。この際は宮沢君の思う通りにやってもらったらどうだ」との発言しています。山中氏は自民党緊急金融システム安定化対策本部長としても「宮沢君を党全体で支えよう」と積極的に支持する立場をとりました。
 
この段階では、与党の法案事前審査がなくなったわけではありません。あれから12年、時代はすすんでいます。民主党政権下では、今年春には高速道路料金の政府提出法案について、与党が国会で修正することが「新しい政治」だと鳩山総理もいっていました。民主党では法案の事前審査と党議決定がないのでしょうか。法案の事前審査がなければ、政府提出法案に党議拘束をかけるのは、おかしな話でしょう?


(4)「イデオロギーと関係のない法案」への対応

98年、自民党の党議の束縛から解放された宮沢蔵相は、金融再生関連法案について、野党案丸のみ後の参議院の審議の中で、以下のように述べた。

「野党案をベースに修正が行われたのも、議会制民主主義の一つのあり方でしょう。メンツがつぶれたとかつぶれないとかは、全く考えていません」(『朝日新聞』98年10月8日)

新聞はこの時、宮沢蔵相が「表情はむっとしたままだった」と報道しています。

しかし、宮沢蔵相は今回の法案がかなり修正されることは当初から覚悟していたように思われます。宮沢蔵相は、蔵相就任直後から「ブリッジバンクについては(政府案と民主党案と)そんなに違っていない。そういう意味では十分話し合えるはずで、妥協点があればそれでいいと思っている」(7月31日未明の記者会見)と妥協路線を明示していました。

そして「(金融再生法案について)野党にいい修正点があれば(政府・自民党案を)直せばいい。起案の時からそう思っていたし、小渕首相もそう思っている」(8月6日記者に対して)、宮沢蔵相「政府案がベストだと固執するつもりはない」(8月28日衆院金融安定化特別委員会での答弁)との発言を繰り返しています。

宮沢蔵相は金融再生法案を「イデオロギーとは関係のない法案」であると認識していたからこそ、こうした柔軟な対応ができたのではないでしょうか。


(5)98年当時の菅民主党代表のスタンス

小渕首相が野党案を「丸のみ」することを決断するに至った背景としては、9月13日に菅民主党代表が「野党案の骨格を飲むなら、政府の責任を問うつもりはない」「この問題は政局にからめない」と発言したことが大きいとされています。

こうした菅代表の発言に対して、小渕退陣、解散・総選挙を勝ち取る上では大失敗だったと小沢一郎氏らが批判しました。

さて、この98年の菅VS小沢論争、12年後のいま、どうなって党内論争になるのでしょうか、ならないのでしょうか。


(6)98年10月の小渕首相の2つの選択肢

98年夏の金融国会を野党提出の金融再生関連法案を「丸飲み」することで乗り切った小渕首相は、この「塗炭の苦しみ」の中から「自・自連立」「自・自・公」連立に向かっていきます。
98年10月22日、小渕首相は講演の中で以下のように語りました。

「法案別にそれぞれの政党が出した案を議員立法という形でまとめていく手法をとるのか、政党として枠組みを考えるのかという問題は今後、考慮していかなければならない」

ここから、2009年夏まで続いた連立政権に時代に入っていくことになるわけですが、この小渕首相
の10月22日の2つの選択肢は、いま、菅首相にも問われているわけです。


(7)加藤紘一元幹事長の部分連合論

小渕首相が連立の道を選択した直後、加藤紘一元幹事長は「衆議院で過半数をもっている自民党は、参議院で数が足りない場合にも、連立ではなく、政策ごとに合意できる政党を求めて法案を成立させる部分連合(パーシャル連合)方式で国会を運営していくのが本来の姿だと思う」と著書の中で述べました(加藤紘一(1999)『いま、政治は何をすべきか』講談社)。

加藤紘一元幹事長は、議員像の変化にもふれています。

「法案を通過させるだけしか能がない政治家には、不要の烙印がおされるようになった」
「役所がいくら法案をつくってきても、委員会がこれを通さない。委員会の現場の与野党の理事たちが、役人が3カ月も半年もかけて徹夜してつくった精緻な条文を、2時間ぐらいで引っ繰り返して書き直してしまう」
「自民党のこれまでの政治家は、役所の言った通りに法案を通し、役所を支援していくという姿勢で過ごして来た。そのため、理事会でこうしたことを議論するのは、まことに増えてである。ところが猛勉強して役人のような細かいことまで議論できる中堅若手の政治家、いわゆる政策新人類が出て来た、自民党の中にある種の変化がおこりはじめた。政策新人類は、私の幹事長時代に、育って来た政治家たちである」

そして、党議拘束をはずすことについては、以下のようにふれています。

「私の幹事長時代、・・・国会における投票について党議拘束の枠を外したことがある。脳死問題のときだ」



以上、98年衆参ねじれ国会=金融国会の歴史が、2010年の衆参ねじれ国会をみていく上での一つの参照基準となれば幸いです。