リアリズム:菅総理の「首相が取り組むべきスタンス」論への違和感
秘書です。
昨日の参院本会議の菅総理の答弁。
メガネをかけて官僚が準備したのであろう文書を読む姿を、社会市民連合発足のときの颯爽とした姿に、だれが予想することができたのか・・・
今日の読売新聞の企画記事「探究菅直人」に「現実派増税も辞さず」とあります。
昨日の答弁でも、
「過去には色々な発言をしていることは否定しない。ただ、東アジアの安全保障は決して安定状況にない。首相がとりくむべきスタンスとして、海兵隊を含む在日米軍は抑止力は極めて重要だ」
という言葉が紹介されています。
本会議でも、この「首相がとりくむべきスタンス」論に昨日の本会議での答弁を聞いているときから、ずっとひっかかっていました。
過去の累々たる発言の積み重ねとして今日の菅内閣総理大臣があるはずなのに、それとはまったく別に、日本国内閣総理大臣がいるということが「リアリズム」なのか。
菅総理は社民党への答弁に、村山総理の日米安保容認発言をひきあいにだしていた。
しかし、あのときは選挙で勝ち取った政権ではない。政党間の合従連衡でとった政権だ。だから、連立により、あの路線転換は連立によって説明可能だ。だが、民主党は、選挙で大勝利して政権交代した政党であり、鳩山さん、菅さんらが選挙期間中に、そして、これまでの政治家の経験の中で言ってきたことの蓄積が評価されて権力の座についたはずだ。
ところが、そのプロセスで今日の権力が構成されていることを、菅さんも多くの民主党の人たちも否定をして、「首相がとりくむべきスタンス」が別にあるかのようにふるまう。
ここにとても違和感を感じます。
選挙で言ってきたこと以外の「首相が取り組むべきスタンス」を認めてしまうと、それは政党が議論をつくし、民意の合意を形成し、それが公論として確立するというプロセスを一切否定するということを意味しています。
これは「市民的公共性」の否定であり、市民的熟議以外に、「国家的公共性」が所与のものとして存在しているということにつながります。
これは政党政治の自殺行為ではないでしょうか。「国家的公共性」は誰が担っているのですか。官僚でしょう。「首相が取り組むべきスタンス」の担い手は官僚じゃないですか。この「市民的公共性」の否定」と「国家的公共性」の是認こそ、官僚主導の根幹ではないですか。
このような議論が、あの社会市民連合を結成された政治家から出てくることに、とても違和感を感じます。
野党時代は何を言ってもいい、選挙にさえ勝てば何をいってもいい、目的はオレが選挙に勝つことだ
これが現実主義でしょうか?どうも民主党の現実主義にはそのにおいを感ずる。
これは、本来その実現が政治目的であるべき公約を、単なる選挙勝利の政治手段におとしめている。手段の目的化、目的の手段化、政治的疎外現象です。
この結果、何が起きるか。選挙期間中は空想的理想主義をとなえ、選挙に勝利したら「国家的公共性」の担い手たる官僚の提起するものにのっかっていく。
この悪しき現実主義は、明治維新以後、国会開設は要求する理想論を唱えつつ、いざ、政権に参加すると藩閥勢力に妥協していった一部自由民権派の協調路線と全く同じです。権力の座についたら、とくに何をするわけでもない。
これに対して、大隈さんたちのように、権力に入って既成勢力た戦う勢力もあった。民主党に期待されているのはこういう政治のはずなのに・・・
自民党(改革派)と民主党はしょせん、同じという意見も聞きます。
しかし、大きく違います。
①たとえ選挙に有利でも、権力の座についてできないことはいいません
②権力の座にあることの自制の念をもっています。権力をもてあそび、悪ふざけをすることはありません。
③理想と現実の落差をみとめ、一歩でも現実に近付けようと「泥沼の中の匍匐前進」をしています
この差は、どこから出てくるのか?
現実を「所与のもの」として既成事実に屈服するのか、現実を「可変的」なものとして状況を操作的にとらえるか、の差にあります。
「首相の取り組むべきスタンス」論は、国家的公共性が所与のものとして存在し、現実も所与のものとして存在するという、既成事実への屈服であり、市民的公共性の敗北を意味するのではないでしょうか。
残念ながら、国会論戦でこの問題をこれ以上、追及することはできません。
今後、参院選の遊説発言を分析してもむなしいでしょう。
「首相の取り組むべきスタンス」論でいえば、すべての選挙期間中の発言は民主党政権を拘束しません。
民主党のマニフェストも今度は慎重な表現で、何でもできるようにしてくることでしょう。
つまり、今度の参院選は、民主党への全権委任、再び官僚主導への全権委任を行うかどうかの選挙です。
民主党とともに、重税国家・公務員天国路線のいくところまでいくのか、です。
■菅首相「基地問題どうにもならない」「もう沖縄は独立した方がいい」と発言 喜納参院議員が暴露
6月16日0時2分配信 産経新聞
菅直人首相が副総理・国家戦略担当相だった昨年9月の政権交代直後、民主党の喜納昌吉参院議員(党沖縄県連代表)に対し、「基地問題はどうにもならない」「もう沖縄は独立した方がいい」などと語っていたことが15日分かった。
首相は23日に沖縄訪問を予定しているが、就任前とはいえ、国土・国民の分離を主張していたことは大きな波紋を呼びそうだ。
喜納氏が、鳩山前政権末に記した新著「沖縄の自己決定権-地球の涙に虹がかかるまで」(未来社)で明らかにした。
この中で喜納氏は政権交代後、沖縄の基地問題に関して菅首相と交わした会話を紹介。喜納氏が「沖縄問題をよろしく」と言ったところ、首相は「沖縄問題は重くてどうしようもない。基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と漏らし、最後は「もう沖縄は独立した方がいい」と言い放ったという。
喜納氏は著書の中で「半分ジョークにしろ、そういうことを副総理・財務相であり、将来首相になる可能性の彼が言ったということ、これは大きいよ。非公式だったとしても重い」と指摘している。
このたぐいの話を、これから民主党の人はいっぱいすることでしょう。
そのときには「公約ですか」と是非、確認してください。
昨日の参院本会議の菅総理の答弁。
メガネをかけて官僚が準備したのであろう文書を読む姿を、社会市民連合発足のときの颯爽とした姿に、だれが予想することができたのか・・・
今日の読売新聞の企画記事「探究菅直人」に「現実派増税も辞さず」とあります。
昨日の答弁でも、
「過去には色々な発言をしていることは否定しない。ただ、東アジアの安全保障は決して安定状況にない。首相がとりくむべきスタンスとして、海兵隊を含む在日米軍は抑止力は極めて重要だ」
という言葉が紹介されています。
本会議でも、この「首相がとりくむべきスタンス」論に昨日の本会議での答弁を聞いているときから、ずっとひっかかっていました。
過去の累々たる発言の積み重ねとして今日の菅内閣総理大臣があるはずなのに、それとはまったく別に、日本国内閣総理大臣がいるということが「リアリズム」なのか。
菅総理は社民党への答弁に、村山総理の日米安保容認発言をひきあいにだしていた。
しかし、あのときは選挙で勝ち取った政権ではない。政党間の合従連衡でとった政権だ。だから、連立により、あの路線転換は連立によって説明可能だ。だが、民主党は、選挙で大勝利して政権交代した政党であり、鳩山さん、菅さんらが選挙期間中に、そして、これまでの政治家の経験の中で言ってきたことの蓄積が評価されて権力の座についたはずだ。
ところが、そのプロセスで今日の権力が構成されていることを、菅さんも多くの民主党の人たちも否定をして、「首相がとりくむべきスタンス」が別にあるかのようにふるまう。
ここにとても違和感を感じます。
選挙で言ってきたこと以外の「首相が取り組むべきスタンス」を認めてしまうと、それは政党が議論をつくし、民意の合意を形成し、それが公論として確立するというプロセスを一切否定するということを意味しています。
これは「市民的公共性」の否定であり、市民的熟議以外に、「国家的公共性」が所与のものとして存在しているということにつながります。
これは政党政治の自殺行為ではないでしょうか。「国家的公共性」は誰が担っているのですか。官僚でしょう。「首相が取り組むべきスタンス」の担い手は官僚じゃないですか。この「市民的公共性」の否定」と「国家的公共性」の是認こそ、官僚主導の根幹ではないですか。
このような議論が、あの社会市民連合を結成された政治家から出てくることに、とても違和感を感じます。
野党時代は何を言ってもいい、選挙にさえ勝てば何をいってもいい、目的はオレが選挙に勝つことだ
これが現実主義でしょうか?どうも民主党の現実主義にはそのにおいを感ずる。
これは、本来その実現が政治目的であるべき公約を、単なる選挙勝利の政治手段におとしめている。手段の目的化、目的の手段化、政治的疎外現象です。
この結果、何が起きるか。選挙期間中は空想的理想主義をとなえ、選挙に勝利したら「国家的公共性」の担い手たる官僚の提起するものにのっかっていく。
この悪しき現実主義は、明治維新以後、国会開設は要求する理想論を唱えつつ、いざ、政権に参加すると藩閥勢力に妥協していった一部自由民権派の協調路線と全く同じです。権力の座についたら、とくに何をするわけでもない。
これに対して、大隈さんたちのように、権力に入って既成勢力た戦う勢力もあった。民主党に期待されているのはこういう政治のはずなのに・・・
自民党(改革派)と民主党はしょせん、同じという意見も聞きます。
しかし、大きく違います。
①たとえ選挙に有利でも、権力の座についてできないことはいいません
②権力の座にあることの自制の念をもっています。権力をもてあそび、悪ふざけをすることはありません。
③理想と現実の落差をみとめ、一歩でも現実に近付けようと「泥沼の中の匍匐前進」をしています
この差は、どこから出てくるのか?
現実を「所与のもの」として既成事実に屈服するのか、現実を「可変的」なものとして状況を操作的にとらえるか、の差にあります。
「首相の取り組むべきスタンス」論は、国家的公共性が所与のものとして存在し、現実も所与のものとして存在するという、既成事実への屈服であり、市民的公共性の敗北を意味するのではないでしょうか。
残念ながら、国会論戦でこの問題をこれ以上、追及することはできません。
今後、参院選の遊説発言を分析してもむなしいでしょう。
「首相の取り組むべきスタンス」論でいえば、すべての選挙期間中の発言は民主党政権を拘束しません。
民主党のマニフェストも今度は慎重な表現で、何でもできるようにしてくることでしょう。
つまり、今度の参院選は、民主党への全権委任、再び官僚主導への全権委任を行うかどうかの選挙です。
民主党とともに、重税国家・公務員天国路線のいくところまでいくのか、です。
■菅首相「基地問題どうにもならない」「もう沖縄は独立した方がいい」と発言 喜納参院議員が暴露
6月16日0時2分配信 産経新聞
菅直人首相が副総理・国家戦略担当相だった昨年9月の政権交代直後、民主党の喜納昌吉参院議員(党沖縄県連代表)に対し、「基地問題はどうにもならない」「もう沖縄は独立した方がいい」などと語っていたことが15日分かった。
首相は23日に沖縄訪問を予定しているが、就任前とはいえ、国土・国民の分離を主張していたことは大きな波紋を呼びそうだ。
喜納氏が、鳩山前政権末に記した新著「沖縄の自己決定権-地球の涙に虹がかかるまで」(未来社)で明らかにした。
この中で喜納氏は政権交代後、沖縄の基地問題に関して菅首相と交わした会話を紹介。喜納氏が「沖縄問題をよろしく」と言ったところ、首相は「沖縄問題は重くてどうしようもない。基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と漏らし、最後は「もう沖縄は独立した方がいい」と言い放ったという。
喜納氏は著書の中で「半分ジョークにしろ、そういうことを副総理・財務相であり、将来首相になる可能性の彼が言ったということ、これは大きいよ。非公式だったとしても重い」と指摘している。
このたぐいの話を、これから民主党の人はいっぱいすることでしょう。
そのときには「公約ですか」と是非、確認してください。