150年前の古典に今の日本を学ぶ | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

150年前の古典に今の日本を学ぶ

秘書です。1859年にJ・S・ミルが書いた本の訳本『自由論』(岩波書店)読んでます。
池田内閣のキャッチフレーズの「寛容と忍耐」の寛容は、宮沢喜一さんの提案でミルから引用されたと聞いたことがあります。
『自由論』の第3章「幸福の諸要素の一つとしての個性について」を読んでます。


ここに、150年のイギリスと今の日本に似た光景が・・・

「彼らの自問していることは、何が自分の地位にふさわしいことであるか、自分と同様の身分、収入をもっている人々の普通にしていることは何であるか、あるいはまた(なお一層よくないことであるが)、自分より上の身分と境遇とにある人は普通、どんなことをしているのか、ということである。私は、彼らが、自分の嗜好に適しているものよりもむしろ慣習化しているもの(世間並みのもの)の力を選ぶ、といっているのではない。慣習化しているものに対する嗜好以外に何らかの嗜好をもつなどということが彼らにはおよそ起こり得ないのである。かようにして、精神そのものがくびきにつながれているのである。娯楽のためにすることにおいてさえ、まず第一に思いつかれるのは世間の習俗に従うということである。彼らは民衆の中で嗜好するのである」(123―124ページ) 


そして、当時の新聞紙のことですが、これは今の日本のテレビの・・・

「大衆に代わって思想しつつあるのは、新聞紙を通じて時のはずみで大衆に呼びかけたり、大衆の名において語っているところの、大衆に酷似している人々に他ならないのである」(134ページ)


ミルは、「敢えて時代の奇矯ならんとする者」が稀であることを「現代の主たる危険」といっています。

一般的なものへ順応しない(nonconformity)という実例だけでも、即ち、慣習に膝を屈することを拒否するというだけでも、そのこと自体が1つの貢献なのである。世論の圧政が甚だしく、普通でない(奇矯)であるということが非難されるべきことになっているくらいであるから、正に故に、このような圧制を打ち破るため、人々が普通でないとういうことこそむしろ望ましいのである。力ある性格の豊富に存在していた時代と場所においては奇矯な言動もまた常に豊富に存在していた。そして、1つの社会における奇矯な言動の豊富さは、一般に、その社会の包含している天才、精神的活力、および道徳的勇気の豊富さに比例していた。今や敢えて時代の奇矯ならんとする者が極めて稀であるということは、現代の主たる危険を示すものである」(135-136ページ)


宮沢喜一さんが日本の「同質化」(conformity)に警鐘を鳴らしていたことを思い出しました。民主党には「敢えて時代の奇矯ならんとする者」が期待されたはずなのに・・・

ミルは幸福を「能力と発展との個性」との関連でとらえています。

「各人の個性の成長するに比例して、彼は彼自身にとって一層価値のあるものとなり、したがってまた他人にとっても一層価値あるものとなるのである。そこに彼自身の生存に一層大きな生命の充実が存在する」(127ページ)

「何であれ、個性を破砕するようなことは、・・・専制政治なのである」(128ページ)

「個性は発達と同一のものであること、また十分に発達した人間を生み出すもの、生み出しうるものは、ただ個性の養成のみであるということ」(128ページ)


そして、

「欲望と衝動とは、信仰や自制と同様に、完全な人間の一要素である」(121ページ)


歴史的にみると、

「自発性と個性との要素が余りに多すぎて、社会の原則がこれと苦闘していた時代があった。当時の困難は、強力な肉体または精神の持ち主を誘導して、彼らの衝動を制御するように命じる何らかの規則に服従させることにあった」(122-123ページ)


しかし、

「いまや社会はすでに完全に個性を征服してしまっている。したがって、人間性を脅かしている危険は、個人的衝動や選り好みの過剰ではなくて、これらのものの欠乏なのである」(123ページ)

「そして終には、自分の天性に服従しないことによって、服従すべき何らの天性ももたないものとなるのである」(124ページ)

なんか、いまの日本みたいではないでしょうか。このあたりがデフレの根源的な原因か?


では、いまの日本へのヒントは?

「利己的な要素に抑圧を加えられれば、それによって天性の社会的な要素がよりよき成長をとげることも可能となる」(128ページ)

「他人のために厳格な正義の規則を遵守させられることは、他人の幸福を自己の目的としようとする感情と能力とを成長させる」(128ページ)


古典には学ぶべき点がたくさんあります。