小さい画面で…だったが、アンドリュー・ニコル監督の『タイム』を見た。同監督の作品としてはもう15年も前になる『ガタカ』(1997)が非常に印象的で、世界観、ストーリー展開、脚本だけではなく衣装、建物のインテリア、都市のエクステリア凡てにわたってスタイリッシュな映画だった。未来都市をデザインさせる修士学科(MScアーバン・デザイン)で勉強していた際、シラバスで「必見映画」に指定されていた。 同様のSFサスペンスである本作もストーリーが良く練り上げられており、お金が支配してきた現代から、時間がお金の代わりになって、人生の残り時間を毎日やりとりするスラム・ゾーンに住む労働者たちと、ほとんど不死身、つまり残り時間1,000年などという特権階級が住むニューグリニッジの日常を描いている。時間はどうもエネルギーか精気のような扱いになっていて、腕にあと何時間残っているかが、緑色に発光する数字で表される。残り時間がゼロになって死ぬと、黒く刺青のように見えるところが、ホロコースト生存者を思い起こさせる。この背景として人類が老化を克服し、誰もが外見上25歳から年を取らないことになっているので、主人公ジャスティン・ティンバーレイクの母親もどうみてもせいぜいお姉さんくらいにしか見えない。というわけで、この映画には35歳くらいまでの俳優しか出てこない。渋いオヤジとか、円熟した女優が好きな人には物足らない映画かもしれないが、せりふ回しや周囲の人たちの演技などの効果で、設定年齢が上の役は次第にそう見えてきたりするところが不思議である。

 意外だったのは、時間がお金の代わりにやりとりされる設定であるのだが、労働者階級と特権階級の人々の暮らしが、かつての労働者階級と貴族階級の生活とあまり変わらず、労働者はその日暮らしで働きづめである一方、特権階級は時間が有り余っているのでギャンブルで暇つぶし。スラム・ゾーンでは残り少ない時間を奪い合い、殺人事件が多発、マフィアも存在しや時間警察の取締りもある。銀行や質屋もお金ではなく時間を取引するだけで、あまり現在と変わらない。

 映画の中で描かれる未来都市は、高速道路と車の進化型で表現され、といってもほとんど今の車と変わらなくてCGも使ってないので、低予算で済んでいるはず。建物などは、おそらくアメリカの既存の場所を使っているのではないか。ジャック・タティの『プレイタイム』のように、パリ郊外に撮影用のモダニズム都市を造ってしまった、というわけではないだろう。フーバー・ダムらしき湖やラスベガスで見たような建物もあったし。たしか、映画監督の押井守も未来は現在の進化形だから少し見慣れないもの(ロボットとか)を追加するだけで、案外表現できると言っていたが、その通りだ。

 物語としては、『俺たちに明日はない』でのボニー&クライド並の銀行強盗+逃避行と、毎日を必死に生きることによってお人形から生き生きした女性へ進化するヒロイン、自分の誘拐犯に恋してしまうストックホルム症候群、鼠小僧のように弱者に時間をばらまく主人公とアイルランド系警察官を演じるキリアン・マーフィー(『麦の穂をゆらす風』)の追跡劇などが絡まっていて、飽きさせない。一方『ガタカ』と同様に「生きるとはどういうことか」という主題が通奏低音のように流れているので見終わった後にも考え込んでしまう映画である。監督のアンドリュー・ニコルが原作とは、彼の総合的な才能に脱帽する。『タイム』という日本語タイトルだけが、どうにも気に食わないけれど…