前回の続きです

尚、これからの内容は、事実に基づく部分と、よっさん独自の想像での考察もあります

合邦辻と合法衢?

資料になるのは、
⑴先日閻魔堂でいただいた合邦辻閻魔堂の由来のプリント
⑵平成30年1月 第149回文楽公演  国立文楽劇場のパンフレット
⑶平成27年7月 大阪松竹座 七月大歌舞伎の筋書き

です

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⑴には、こう書かれています
合邦辻閻魔堂は聖徳太子の御開基と伝えられる。
合邦は、もと合法と書き、聖徳太子が物部守屋と仏法について合論せられた所であるという。
閻魔堂はもと立派な大伽藍であったが、兵火にかかってから辻堂となり、江戸時代には「町内持ち」といって、町内によってまつられていた

仏法の合論から、合法    なるほど

⑵の24ページ「文楽入門 ある古書店主と大学生の会話」という記事の文中に、
今の閻魔堂には江戸時代の閻魔の石像はないから、それなら『摂津名所図会』(1796・98刊)を見るといい。ほら、これだよ。同じような絵は確か『絵本合邦辻』(1805刊)という江戸時代の読本でも見たことがある
と書かれています

また、同じページの文中に、
ちょっと地図で見るかい?ちょうどここに文化三年(1806)の『増修改正せた摂州大阪地図』がある

とあり、25ページに2枚の絵図があります

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上の絵図(1796)には、合法辻閻魔堂と書かれています。大きな閻魔大王の坐像があります。この後なら、大人1人2人は隠れることが出来ます

下の地図(1806)には、合邦辻閻魔堂と書かれています


また⑵には、
『摂州合邦辻』は、1773年2月、大阪北堀江市の側芝居・豊竹此之吉座で初演と書かれています

私が正月に観たのは、『摂州合邦辻』  合邦住家の段です
春の彼岸のころ。閻魔堂建立の金を集める玉手御前の父合邦同心の庵室で、人々を招き百万遍念仏が行われているところから、開幕します
主人公玉手御前の父親は、合邦という名前になっています

なるほど、
この文楽で初めて合邦という名が出てきます


おそらく、文楽の『摂州合邦辻』が、大阪で当たったため、知名度が上がり、徐々に自然と合法辻が合邦辻に改名されていったのでしょう
ちょうど、江戸時代に祇園のお茶屋「万屋」が、『仮名手本忠臣蔵』が、文楽や歌舞伎で大当たりしたため、屋号を「一力屋」に変更したように

それで、1806年の地図には、合邦辻と書かれているし、1805年の読本も「絵本合邦辻」になっているのでしょう


ところで、古地図からいくと、江戸時代の閻魔堂は、今の閻魔堂の道をはさんだ反対側。ちょうど、前回のブログで、交差点の写真を撮るために立っていたあたりにあった事になりますよ



では、歌舞伎の『絵本合法衢』は、どうかというと、
⑶には、文化七年(1810年)5月江戸市村座で初演と書かれています
文楽『摂州合邦辻』の初演から約40年後
読本の『絵本合邦辻』の5年後

また⑶には、
加賀前田家一門の前田大学之助が高橋清左衛門を殺害、後に弟の作左衛門によって討たれた。大坂天王寺付近の合邦辻閻魔堂で起きた仇討事件(1656年)の史実を素材にした物語が本作です。と書かれています

四代目鶴屋南北(大南北)は、江戸日本橋の生まれ
色々資料を集めて、この通し狂言を作ったのでしょうね

仇討があったのが1656年なので、合邦辻は、まだ合法辻であったはずです

『絵本合法衢』は、大詰 は、第1場は、合法庵室の場    第2場は、閻魔堂の場です
僧の合法、実は高橋弥十郎が、妻皐月と2人で仇討本懐を遂げます
僧合法と名付けることで、ガッポウが、原点回帰できるし、玉手御前の父合邦と区別する事もできます
史実の年代の合法辻にも合致します

また読本の「絵本合邦辻」から題名の、絵本の字をとった考えられますが、読み物(マンガ)と同じでは、格調が高くない
それで辻は、難しい漢字の衢を当てたのでしょう
これで
『絵本合法衢』の完成です




一人で勝手に謎解きした感じです

あ〜、スッキリした


最後まで読んでいただいて、ありがとうございます


尚、衢という漢字は、私のスマホでは、ツジと入力してもでません。チマタと入力するとでました