お金に対する考察 その8(上級編) お金は貸借関係か否か? | 次世代に引き継ぐ日本

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お金(貨幣)とは貸借関係であるという主張(貸借関係肯定派)と、いや違うという主張(貸借関係否定派)の2つがあり、それぞれの主張について自分の考えを整理していきたいと思います。

お金は貸借関係であるというのは、民間銀行レベルの話では受け入れられやすいのではないかと思います。
具体的な例を出すと、A社が銀行に100万円の融資をお願いした時に、銀行は無から銀行預金というお金を作り出すという内容です。この時銀行は、A社への債権100万円を得て、100万円の銀行預金を無から作り出します。一方でA社は、100万円の銀行預金という資産を得て、銀行への債務100万円を負います。この100万円の貸借関係が成立する事で、100万円の銀行預金というお金が生まれるので、お金は貸借関係であるという主張になります。

この貸借関係により無から銀行預金が生まれるので、「従来の又貸し論」は否定されます。
「従来の又貸し論」とは、銀行は企業や家計から現金を預り(預金してもらい)、その預かった現金を第三者に又貸し(融資)しているという内容です。又貸しをする為には、その時点で現金が必要ですが、上記のように無から銀行預金が生み出せるとなると、融資する時点では現金は必要なくなるので、「従来の又貸し論」は否定されます。

ただし、銀行預金が生まれた時に現金が介在していなくても、銀行預金は現金を借りた(預かった)という記録になるので、A社が融資を受けた銀行預金を現金化したいと言えば、銀行は現金化する必要があります。
「従来の又貸し論」は否定されますが、銀行は銀行預金を持っている人の要求に応じて現金を返却するという負債を負う事になり、それに応じた現金を集めておく必要がある事には変わりありません。

銀行預金というお金は現金を借りたという記録であり、銀行から見れば負債になりますが、じゃあ現金というお金はどうなるんだ?というのが次の考察になります。ここで賛成派と否定派で見解が分かれていると考えます。

現金(紙幣、日本銀行券を想定)ですが、昔は同額の金と交換する事になっていました。金本位制という制度ですが、現金は金を借りたという借用証書であり、現金よりも上の階層に金が存在していたわけです。
金は希少金属であり量に限界があります。それゆえに担保として機能されると思われていたわけですが、経済が発展するにつれて現金を金の保有量以上に発行する必要が出てきた為、各国は金との交換を廃止しました。混乱必須と思われましたが、金の担保なしに現金が機能しているのは、現代人にとっては当たり前の事実でしょう。

お金が貸借関係か否かという争点は、現金と金の交換が廃止され、金本位制から管理通貨制度に移行した事で表面化したと言えます。
金との交換という制約がなくなった事で、現金が貨幣の頂点に立ったと考えているのが否定派で、相変わらず現金は「何か」を借りたという借用証書のままであると考えているのが肯定派だと言えるでしょう。

貸借関係肯定派の主張は、現行の法制度や慣習との相性が良いという点が挙げられると思います。
・日本銀行が発行銀行券を負債として分類している点
・ビットコインに代表される金融資産を「暗号資産」と呼び、お金(仮想通貨)と呼ぶ事を改めた点
・日本銀行券は、日銀当座預金との交換を経て市場に送り出されている点
上記を考慮すると、日本銀行や法律を考える人達は、貸借関係肯定派なのかもしれません。

また、お金は貸借関係であるとシンプルに定義できるのが良い点であると思います。
日銀当座預金は「何か」を借りた記録であり、現金はその記録を物質化したモノという事になり、日銀当座預金と現金は同等の存在となります。

問題点は、借りている「何か」がはっきりせず、(恐らく)概念上の存在で実在するものではない事が、一般人への理解を難しくさせている点であると言えます。
「ロビンソン・クルーソーとフライデーしかいない孤島」で検索するといろいろと解説が出てきますが、フライデーが秋に取った「魚」を渡すという借用証書がお金であるとするものです。しかしこれを現代の現金に当てはめた場合、「魚」に該当するものが何であるかというのがはっきりしません。
「何か」を原初のお金としてはどうだろうと考えた事もありましたが、その原初のお金は貸借関係で成立したものではないので矛盾してしまいました。

次に貸借関係否定派の主張となりますが、注意しなければならないのは、現金の貸借関係を否定するのみで、預金などの貸借関係をお金とする事まで否定していない点です。
そして、こちらの主張は、目に見える現金がお金界の頂点ですから、何と言っても理解しやすいのが良い点であります。不換紙幣の説明もお金界の頂点だからという一言で済んでしまいます。

あまり難癖を付ける点はないのですが、敢えてひねり出すと下記になります。
日本銀行はなぜ自分で作り出せる現金を受けとるのか?
お米農家が普通外からお米を買うかな?

この難癖に対しては、日本銀行はお金の流通量を調整するのが仕事だから、流通量を減らしたい時は国債を売却したりして現金を受け取る事もある、という回答が出来、自己解決してしまいました。

貸借関係肯定派は、お金の持つ商品性をことさら嫌悪していると感じます(商品貨幣論の否定)。
それは過去における商品貨幣の問題点、つまり物質である為にお金の発行量が制限され、経済の規模に合わせてお金の発行量を調整出来ない点を否定しようとしているのではないかと考えます。
しかし、否定派が主張するように現金をお金界の頂点に置いても、貸借関係によりお金(預金)が増えていく点は変わりがなく、お金の発行量に制限はかからないのです。
否定派のお金に対する認識は、実物である現金と、その現金を介在して発生する貸借関係がお金であると言えます。

次にお金の価値を保証しているのは何かという点です。
現金が金と交換出来た時代は、金が現金の価値を保証していると考えられてきました。それが金との交換が廃止になり、ただの紙切れである現金の価値を何が保証しているのか?という事を考えるきっかけとなりました。
貸借関係肯定派の主張は、お金は貸借関係であり、お金を持っている人はお金の発行者に借りたとされるものを請求出来るからであるというものです。上記の例で言うと、フライデーにお金を持って行くと秋に捕った魚をもらえるからお金に価値があるのだとなります。しかし、現代では現金を日本銀行に持って行っても何ももらえませんので、矛盾が生じています。

ただの紙切れである現金の価値を保証し流通するのは、相手が受け取ってくれるからです。その1つの例として、租税が貨幣を動かす、いわゆる「租税貨幣論」があります。
「租税貨幣論」や「モズラーの名刺」で検索すると解説が出てきますが、政府が税金を紙切れで受け取ると保証するから、人々はただの紙切れに価値を見出し流通するのです。
この「租税貨幣論」は、MMTという理論の基盤の1つでもあります。もう1つは、お金は債務の記録(負債)であるという貸借関係肯定派と同じ考えである「信用貨幣論」になります。MMTがある為、「租税貨幣論」と「信用貨幣論」はセットで語られる事が多いのですが、別に「租税貨幣論」は信用貨幣でない、商品貨幣でも成立します。なぜなら、「モズラーの名刺」の逸話で出てくる名刺に貸借関係は存在せず、商品貨幣そのものであるからです。

「租税貨幣論」はMMTの中の理論という事もあり、否定されている方も散見されますが、重要なのは「租税」は「お金を流通させる」事への十分条件であるという事です。
つまり、「租税がなくてもお金は流通する」と「租税があればお金は流通する」は両立するという事です。少なくとも、租税の分だけは政府がお金を受け取るので流通します。

さて、こうして書いていってみると、否定派の主張の方が隙がないですね。
仮説に対して検証し、矛盾が無いのだから、私も否定派の立場ですね。(何か良さげな呼び方があると良いのですが)
肯定派のシンプルな主張は好きなのですが、借りているのが何かというのを明らかにしないと厳しそうです。
皆さんはどちらの主張を支持しますか?