盲亀浮木(第178You Tube(ニーチェ)、小林秀雄との真昼の決闘)(#11)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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htptps://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
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第178You Tube(ニーチェ)
https://youtu.be/QL-ZqONHDa0


ニーチェは人間性を2つに分けている。Herdsmen(牧夫)とubermench(
理想的な男)。 Herdsmenは羊のようで、群れ、群衆の中で生きるのを好む。彼らは退屈で、鈍く鈍感である。ubermenchは時には「スーパーマン」と翻訳されているが、背が高く、ハンサム、恐れ知らず、冷酷という意味だけではない。もっと本質的な意味がある。芸術的繊細さ、もっと正確に言うなら、芸術的な天才を意味する。ニーチェとワグナーが激しい議論をするまで、ワグナーがubermenchの美徳の最高の例を提示していた。本質(真実)が「意志の力」であるとするなら、芸術が最高の表現法である。そして、「ハッピーエンド」にならない以上、悲劇が芸術の最高の形となる。

ニーチェは、哲学と宗教を嘲笑っている。彼の初期作品において、理性は後方に向いていると信じている。ライオンは美徳の最高の例である。哲学はほとんど底辺に属する。それ以上に哲学者は道徳性の善悪の境界線を探すことに専念している。ライオンはそのような面倒くさい輩にどうするであろうか? 疑いもなく、食べるだろう。宗教、特にほとんどのキリスト教徒は、道徳の奴隷と化している。最高の美徳に向かい、謙虚で大人しい。民主主義も社会主義もニーチェの嘲笑の対象である。民主主義も社会主義も、自然法に反している。それは生命力から反している。それらは、メンタリティの奴隷であることを褒めたたえている。

絶対的な抽象的真理などというものはない。人間は己の意志の表現として、彼自身の真実を創造している。この真実の形は、芸術的な表現である。芸術に意欲や熱情を伴った時、真実となる。芸術は神のようなものである。本当の芸術は、純粋で創造的であり、束縛のない意志をもっている。「力の意志」の最高の形をもっている。芸術家の最高の例は、画家であり、音楽家だけでなく、ジンギスカーンである。悲劇は芸術の最高の形であり、最高の真実の形である。悲劇はすべての生き物に降り注ぐ苦しみである。しかし、この苦しみは拒否できないある種の高貴な世界に変えることができる。そうだとすると、我々は意志の力の最高の表現を見ることができる。
つづく


小林秀雄との真昼の決闘#15
「彼(デカルト)は当時の学問を疑い、いたるところにその欠陥を見て迷ったのではない。根を失って悉く死んでいると判断できる自分の自由を信じたのである。『自分は懐疑派ではない。懐疑派とは、ただ疑う為に疑い、決断しないのを衒(てら)う人間だ」と、彼は言っています。学問は、抱え込んだ知識という財産の重荷に死んでいる。学者達は、財産の整理や分類に没頭しているだけで、何一つ新しい富を加えない。一見そんな風に見えないのは学者達の巧知と虚栄心は限りなく、その為に、どうやら『真実らしきもの』が、幾つでも現れるからだ。それが己れを欺き、人を誤らしている。そうデカルトは見た。見たとは、遅疑なく一切の書物を捨てて、従軍し、旅行する事であった。『自分自身のうちに、でなければ、世間という大きな書物は、彼に語りかける、学問のある人の書斎を推論より、重大な事件に迫られ、一つ判断を誤れば処刑されると言った場合、学問もない人達が働かす分別の方が、真理を摑むであろう、と。『私は、自分の行動に於いて、明晰に見る為に、この生活に於いて、確実に歩く為に、真と偽とを判別する事を学ぼうという最大の欲望を持ちつづけた』。3年間も持ちつづけた或る冬の初め、ドイツの或る村に駐屯した或る日、ただ一人で終日、炉の火を眺めて考えているうちに、自分の『方法』に関する基本的な構想が、自ら成るように成った。・・・デカルトのドイツに於ける、学問の方法上の開眼とは、原理的には、驚くほど単純なものであった。真理を得る為には、直感と演繹という精神の基本的な誤りようのない二つの能力を使用すれば足りる、そういう学問が幾何学ならば、これは学問の枠であり、真理を目指すあらゆる学問は、この方法に帰一すれば、長い鎖のように連結するだろう、という考えであった。この中世紀の学問を一変させた着想に、今日はもう驚く者はないだろうが、着想の背後には人間がいる。」

木庵の反応
<真理追究のため、命がけで遍歴したデカルトの人間が伝わってくる。当時と現代と比べれば、そう変わりはない。現代の多くの知識人は、「抱え込んだ知識という財産の重荷に死んでいる」、「財産の整理や分類に没頭しているだけ」である。それがオーソリティーとなって、世間で認知され、我々凡人は混乱する。なぜなら、彼らの「巧名と虚栄心」によって、「真実らしきもの」が幾つも現れているように見えるからである。そして、我々は何を信じてよいか混乱してしまう。結局己を信じて何が正しいかを判断するしかない。読者にとって、「直感と演繹という精神の基本的な誤りようのない二つの能力を使用すれば足りる、そういう学問が幾何学ならば、これは学問の枠であり、真理を目指すあらゆる学問は、この方法に帰一すれば、長い鎖のように連結するだろう」という箇所が理解しにくいであろう。先ず演繹について説明する。演繹とは先ず仮定がある。その仮定が真実かどうかは問わない。その仮定の上に論理の整合性を問う。どこまでも論理に集中して、論理的に正しい演繹が完成する。ただし論理の正しさはあるが、人間経験から離れた正しさである。数学の世界、代数とか幾何学がこれにあたる。デカルト(小林?)は幾何学について触れている。そこで、幾何学が人間の経験に基づいていない学問であることを説明する。我々は三角形とか四角形を頭に浮かべているが、幾何学で扱う三角形とか四角形は、この世に存在するものではない。どこまでも頭の中の世界である。幾何学の、最初のそして一番大事な仮定は点である。点とは重量も面積もないポイントと定義される。二つの点の最短距離を直線、そして、複数の線の重なりによって生じるものを三角形、四角形と広げていく。結局幾何学とは最初の点、この世に存在しないものを仮定して始まり、そこから発展した学問体系のことを言う。だから幾何学の枠の中では論理の整合性が完璧であっても、その出来あがったものは、人間経験について何も語っていないことになる。それに対して、人間経験に基づく学問がある。それは社会科学(哲学、歴史学、心理学、社会学など)である。ところがこの社会科学が自分の論理の完璧性をアピールするために、演繹法を使いたがる。例えば、共産主義的弁証法唯物史観がそれである。この偽社会科学によると、歴史は、資本主義→帝国主義→社会主義→共産主義と必然的に展開していくと仮定する。その理論(演繹)に沿って歴史上のある事件を解釈する。人間に関わる社会科学が、人間に関わらない幾何学のような演繹法を用いてはいけないのに、それを平気で行い、人々を誑かす。結局社会科学とは人間が行った個々のデーターを集め、そこから法則性を見出す帰納法を使うべきであるのに、演繹法を用いようとする。哲学も社会科学であって、演繹法を用いることは危険なことである。ただし演繹の枠組みの中は正しいので、ある哲学者は自分の論理を正しいものにするために、この演繹法を取り入れようとする。デカルトもその一人である。哲学はどこまでも人間について述べる学問であるから、人間に関してだれもが認める確かな土台となるものを発見し、それを演繹(論理)の整合性と連結すれば確かな哲学が構築できる。その確かな土台が直感で得た、「我れ思う、故に我れ在り」である。この基礎となるものの発見により、「長い鎖のように連結」した論理の整合性のある立派な哲学体系が作れると考えたのである。木庵>

「デカルトは、数学を学んでみて、この貴重な学問が、何故死んでいるかを看破した。それはこの学問が、常識に結合していないからなのだ。数学の仕事の背後では、目に見えぬ、極度に純化された常識が働いている筈なのだが、これに目を着けないから、数学は悪く専門化し、幾何学者は、図形を追い、代数学者は符号に屈従し、実効のない、徒らに複雑な技術と化している。デカルトは、数学を計算の技術と見る眼から、数学を「精神を陶冶する学問」と解する大きな精神の眼に飛び移る。そして、これを実地に当って、陶冶してみる、すると古代の幾何学は近代の代数学に結合して了った。論理学についても同じ事だ。同じ理由に死んでいる。論理学は、自分の知っている事を、或いは本当には知らない事でも、順序立てて人に語るには有用なものだが、自分の知らない事を知ろうとするには、役に立たぬ。そんな次第であるのも、論理学者が論理学の規則に足をとられ、ものを判断する精神の力を見失っているからだ。デカルトはこう言います、『多数の法律が、屢々犯罪の口実を与えるが如く、法律がどんなに少なくても、よく守られれば、国家は、ずっとよく治まるが如く、守るのをただの一度も怠らぬという変わらぬ固い決心さえあれば、論理学を構成している多くの規則の代わりに、四つのもので充分だ、と私は考えた』。四つのものと言っても、原理となる規則はたった一つなのです。『疑う余地のないほど、極めて明瞭に判然と、自分の心に現れたものしか、判断のうちに取り入れぬ事』。・・・明瞭判然たる問題から、複雑な問題に、一歩一歩、順序を踏んで行く他はないとすれば、学問は、遅々として進むまい。更に、少しでも疑わしいものは、これを知らぬと言い切る事は、人生にとっては、ひどく困難な、勇気を要することだと合点するでしょう。デカルトは、この困難に一生堪えた人だ。彼に堪える事が出来たのも、誰にでも自然に備っている基本的な知恵の種子を、どこまでも育てる事は可能だ、という深い信念の故だ、ただそれだけの故だ、そういう人間を想わずに、彼の着想や学説の功罪を云々しても、これはまあ真面目臭った冗談のような話だ。」


木庵の反応
<小林の抱く数学、幾何学は、純粋数学、純粋幾何学として解釈していない。木庵の捉えかたと違う。特に古代幾何学には、人間経験を介すると小林は理解している。木庵の純粋数学の理解は人間を介していない。このあたりの二人の数学、幾何学に対するズレは棚に置いて、この章を理解してもらいたい。特にデカルトの数学に対する考えが「精神を陶冶する学問」となると、読者は混乱してしまうだろう。数学とは人間経験と離れたものであるのに「数学は精神を陶冶する学問」とは??。しかし、精神は経験を離れても存在すると考えるなら、木庵の数学の定義とデカルトの数学に抱く精神性の間に矛盾がない。この章をあまり難しく考えるより、人生を生きる上で、ある明瞭なるものを基礎にするなら、何が正しくて何が正しくないかを判断できるのではないかというような、我々の日常的な決意を想定するなら、この文章の意味が理解しやすいのではないか。例えば「ある人が一度でも嘘をつけばその人の言うことは全て信用しない」とか。人それぞれにその譲らない基礎となる判断する基準があるだろう。そのような日常性をイメージするとデカルトの、小林の、言わんとすることが理解しやすいのではないか。一般的に言って、我々凡夫は、基準がしっかりしていない。だから周囲の情報に振り回されてしまう。デカルトまではいかなくとも、一度、自分の判断基準になる確固たるものを見つける精神遍歴をしてみるのもよいのではないか。木庵>

「デカルトの形而上学というものの価値や意味合いは、きわめて実践的で創造的だった。この思想家自身と、これを知識と受け取って、議論する理論家との間には、大きな食い違いがあったようです。」


木庵の反応
<デカルトの哲学を自分から離れた観念の学問と捉えると意味がない。自分の問題としてとらえ、前述したように自分の価値基準の基礎を求めるための材料をデカルトが提供してくれたとぐらいに考えると、デカルトを勉強する意味がある。「そのような学び方をしなさい」と小林が言っているように思える。木庵>
つづく


写真:ライオン
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