ウソ(誇学令和7年度第9回、東京裁判の矛盾の象徴となった軍人・石原莞爾 )#33
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誇りが持てる日本の歴史学習会(誇学令和7年度第9回、東京裁判の矛盾の象徴となった軍人・石原莞爾)
今回の学習会は、前半の1時間を受講していない。アーカイブは2週間後に公開されるそうだが、木庵は明日ロスを発ち日本旅行に出かけるために見ることができない。木庵が学習に入ってから、満州の歴史、それに、満州事変の後、日中戦争に突入したが、満州事変を起こした張本人の石原莞爾は日中戦争拡大に猛反対した。その理由について述べられていた。
石原莞爾が日中戦争拡大に反対した主な理由
石原莞爾が日中戦争拡大に反対した主な理由は、彼が提唱した「世界最終戦論」に基づき、満州事変で築いた満州を「最終戦争」のための日本の基盤と見なしていたため、中国全土との全面戦争は日本の国力を消耗させ、将来の最終戦争を有利に進めるための資源や人材を失うことを恐れたからである。また、日中戦争の拡大は、彼が理想とした日満一体の「理想国家」建設を妨げ、東條英機らとの対立も背景になった。
石原は、将来世界で避けられない最終戦争(最終戦争)が起こると考え、その戦争に日本が勝つためには、満州を日本の「経済的・軍事的な後背地」として確保し、強固な国家を築く必要があると考えた。
ところが、中国との全面戦争(日中戦争)は、日本の貴重な資源と人材を中国大陸で消耗させ、真の最終戦争に備える力を削ぐと判断した。
満州事変で満州国を建国した後、石原は満州を単なる植民地ではなく、日・満・蒙・露・中の五族協和による理想的な新国家建設の拠点としたいと考えていた。日中戦争の泥沼化は、この理想的な新体制の確立を不可能にし、日本がアジアのリーダーとして立つべき道筋を誤らせると考えたのだ。
石原は日中戦争の拡大を主張する東條英機(陸軍大臣、後に首相)と激しく対立し、その結果、関東軍参謀副長に左遷される形で現場から遠ざけられた。
満州事変
昭和6年9月18日、満州に駐屯していた日本の関東軍1万人は、蒋介石の国民党軍23万人(25万人、公安隊を含め45万人という説がある)と戦った。国民党軍は圧倒的な数だけでなく、自動小銃などを持ち、装備においても、日本軍より優れていた。そうであるのに、たった5ヵ月で満州全域を占領、翌年3月1日には「満州国」を建国した。これを策謀、実行したのが、関東軍作戦主任参謀の石原莞爾陸軍中佐(当時)であった。しかも、本国の陸軍省や参謀本部の許可も無い“下剋上”的軍事行動であった。ところが、この一連の作戦に対して、本国からのお咎めがなかった。
東條英機との関係
5歳先輩であった東條英機に対して、石原は東條は戦争のやり方を知らない男、「東条上等兵」と呼んでバカにした。二人は犬猿の仲で、結果的に石原より位の高い東條は、石原を予備役へと追いやり、さらに更迭した。その後、石原は立命館大学で国防学の教鞭をとった。
しかし、日本海軍がミッドウェー海戦で大敗を喫した時、総理大臣であった東條は、石原にアドバイスを求めた。それに対して石原は、「戦争の指導など君にはできないくらいなことは、最初から分かっていることだ。このままで行ったら日本を滅ぼしてしまう。だから君は一日も早く総理大臣をやめるべきだ。」と言い放った。
東京裁判
敗戦後、「茶番裁判」と揶揄されている東京裁判では、石原を戦犯として裁い
てもおかしくなかったが、東條英機をA級戦犯にしたいため、東條と特に仲が悪かった石原に「東條が戦争の根源だ」との証言を得たいと考えた。
昭和21年5月3日、石原は東京の逓信病院に入院中に検事から事情聴取を受けた。「この戦犯の中で誰が一番第一級の悪人か?」 これに対して、「それを聴くか? それなら答えてやろう。それはトルーマン大統領だ」。
検事が、「何でそんなことを言うのか、理由を言いなさい」と言うと、石原は枕元から一枚のビラを取り出した。それは、トルーマン大統領名で出されものであった。
『もし日本国民が銃後において、軍と共に戦争を協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず全部爆撃する。だから平和を祈願して反戦体制の気運をつくれ』
国際法では、非戦闘員は爆撃するなと規定があるにも拘わらず、非戦闘員を何十万人も殺すことは国際法違反である。
検事は、「そのビラに書いてあるのは、単なる脅しじゃないか。」と言い返した。それに対して、石原はさらに言った。「おどしじゃないだろう。実際このビラの通りやっただろう。広島に何をした。長崎に何を落としたんだ。このビラに書いてある以上のことをやったじゃないか。従って、トルーマンの行為は第一級の戦争犯罪だ」。
翌昭和22年、石原は病気療養中のため東北山形にいた。石原のもとに出廷命令が届いた。ところが「私は病気療養中だ、行ける訳がないだろう。お前たちがこっちに来い」と返答した。
石原の要望通り東京裁判が山形県酒田市に出張して5月1日、2日と「出張裁判」が行われた。
法廷に臨んだ石原に裁判長が質問した。
「証人石原はこの裁判に関して聞きたいことはありますか」。石原は答えた。
「なぜ俺を戦争犯罪者として裁かないのだ。このたびの戦争は満州事変が発端となりおこった。満州事変を起こしたのはこの俺だ。なぜ俺を裁かんのだ」。
「あなたは証人としてここに呼ばれたのですから、そのような発言はなさらないで下さい」。
しかし、石原は続けた。「まだある。アメリカは日本の戦争責任を随分と古くまで遡ろうとしているようだが、一体いつまで遡るつもりなのか」。
「日本の行った侵略戦争全てです。できることなら、日清戦争、日露戦争まで遡りたいところです」。
「ほう、ならばペリーを連れてこい ! 日本は鎖国していたんだ。それを無理矢理開国させたのはペリーだろう!」
動揺を隠せない裁判長は、何とか平静を取り繕い次の質問をした。
「石原さん、あなたは日本軍の21倍の支那軍に勝つ自信があったのですか?私には到底無謀な計画のように思えてなりませんが?」
これにも石原は平然と答えた。
「勿論勝算はあるさ。君に教えてやろう。戦争は数の勝負ではないんだ。大切なのは作戦だ。もしもこの戦争で私が指揮をとっていたのなら、裁判長、あなたの席に私が座り、ここにはあなたが立っていた筈だ」。
痛快な石原の応答である。裁判長は、最初は「石原さん」と呼んでいたのが、後半では「石原将軍」とさえ呼んでいたという。
出自
石原は1889年1月18日に山形県鶴岡市に生まれた。父石原啓介は警察官である。1915年には陸軍大学校に入学。陸軍大学校創設以来かつてない頭脳の持ち主といわれ、3年後には次席で卒業している。本当は主席であったのではないか。主席は天皇の前で講義することになっていて、石原はズーズー弁なので、次席に落としたという説がある。歩兵連隊中隊長、陸軍大学教官などを経てドイツに駐在し、軍人としてのキャリアを積み上げていく。この前後に日蓮宗系の国柱会に入会しているが、この日蓮宗の教えが彼の後の思想に大きく影響している。1949年(昭和24年)春からの体調悪化に続き、肺炎、肺水腫、そして膀胱癌の併発により、同年8月15日の終戦の日に亡くなっている。
「最終戦争論」
「最終戦争論」は石原が提唱した、「人類史上最後の決戦的な大規模戦争(最終戦争)ののち、世界が統一され永久平和が訪れる」という思想である。日米を中心とした東西文明の覇権争いが究極の殺戮戦を経て世界を一つにまとめ上げ、戦争の時代が終わるという考えである。世界は「東洋(日本中心)」と「西洋(アメリカ中心)」に分かれ、その覇権をかけた最終戦争が起こるが、その戦争は「決戦戦争」として人類の破壊力を極限まで高め、最終的に世界を統一し、戦争の歴史を終わらせるというもの。
著書としての『世界最終戦争論』は1940年(昭和15年)に発表され、数十万部を売り上げる大ベストセラーにもなっている。
この「最終戦争論」には日蓮宗の教えを継承しているようである。日蓮が「日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起こる。そのときに本化上行が再び世の中に出て来られ、・・・日本の国体を中心とする世界統一が実現する」と予言している。このことが最終戦論を裏付けようとしている。
多くの国が利害を争って戦争を行っているが、最終戦争は利害だけの問題ではなく、世界人類の長年の憧れであった世界の統一、永遠の平和を達成するための、やむをえない大犠牲としているのである。
注目に値するのは、この最終戦争論を発表した時期は1940年であり、日中戦争の最中であった。日中戦争は、東洋が西洋の盟主と決戦戦争をする前の準決勝であり、これに日本が勝利した後に中国も含めて東亜が結束し、西洋文明に立ち向かっていかなくてはならないと主張している。それゆえに戦略論として満州事変を起こした石原が、盧溝橋事件以降の日中戦争拡大に反対したのである。東亜の結束は、西洋が科学文明や技術力を柱として結びつくのに対し、それに立ち遅れた東亜の諸国は精神力・道義力によって提携するのが肝要であると述べている。そして天皇がその盟主となるのが望ましいが、これは日本が他国を制して実現すべき問題ではなく、日本は諸国家と平等に提携し、その徳と力によって諸国家の自然推挙によるべきであり、現在進行している紛争の最中に自ら強権的にこれを主張すべきでないとしている。
このように、石原の最終戦争論は、決して一般的に捉えられているような「日本国粋主義」という単純な思想ではなく、その最終目標は戦争のない世界平和にあったことは間違いなさそうである。そしてそれは単なる空想的な理想主義ではなく、現実に進行している戦争を19世紀から続く戦争史のダイナミズムの中で捉え、日本のとるべき姿を提唱していると考えられる。

張作霖暗殺事件
講義の中に,張作霖暗殺事件が取り扱われていた。
1928年6月、満州軍閥の張作霖が北京から奉天に向かう途中、鉄道が爆破されて殺害された。当時日本では満州某重大事件と言われ真相は明らかにされなかった。ところが、戦後の東京裁判などの過程で、この事件は日本の関東軍(南満州鉄道の保護などを目的に設置された日本の軍隊)の河本大作参謀が中心になって実行したということになった。当時日本の関東軍は、満州で最も有力であった奉天派の軍閥・張作霖を利用して満州における支配権を強めようと画策し、張作霖は日本に非協力的であり、役に立たないと判断し、その張作霖が蔣介石に北京を追われ、満州に戻ってくる機会に一挙に葬ったというのが定説になった。
張作霖暗殺事件の真相
1928年6月4日の早朝、蔣介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯の京奉線と満鉄連長線の立体交差地点を10km/h程で通過中、上方を通る満鉄線陸橋の橋脚ないし橋桁に仕掛けられていた黄色火薬300kgが爆発し、列車は上からの爆風で押しつぶされるように大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落した、とある。しかし、後の調査によると、列車の上層部が爆破されていることが分かった。橋脚や橋桁に爆薬が爆発したとすると、列車の天井が突きつけることはない。列車内の工作を行えたのは、国民党軍であるとか、張作霖の息子の張学良であるという説まである。張学良はソ連に留学したことがあるので、ソ連の策謀だという説まである。
張学良(張作霖?)の旧邸探訪
木庵は、実は張学良(張作霖だったかな?)の旧邸宅を訪れている。旧邸は博物館になっていた。そこには、張作霖暗殺事件直後の作霖の妻が主人の死を日本軍人に知らせないふりをしている蝋人形が設置されていた。木庵と元満蒙青少年開拓団の生き残りの人と同行していた通訳の話によると、作霖の妻が主人の死を隠している慎ましやかさを見学者に訴えていたと。見学者のほとんどは中国人で、どこまで当時の事情を理解していたか疑問とするところである。木庵には蝋人形が語る話は、ウソだとすぐに分かった。しかし、その時張作霖事件の全貌を知ることはなかった。寧ろ、この博物館の職員は、明、清時代の古物を日本人に売ろうとしていた。我々のグループでそれらを買った人は一人もいなかった。木庵がその時金持ちであれば、古物を買っただろう。現に木庵の友人の禅僧は、中国旅行したときに、日本なら重要文化財にされるような明朝(?)の古物を、100万円ほどで買っている。今なら1千万円以上はするような代物である。この博物館の職員は、日本人グループが誰も買わないと分かったとき、失望の表情をした。日本人は絶好の客であったのだが、買ってくれないとは、コミッションがもらえるないということで、彼の失望は並大抵のものではなかった。彼は博物館の文芸員と同時に古物の販売員でもあったようだ。
写真:石原莞爾と、張作霖暗殺現場
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