満洲国は後の世から言われるほど、悪くなかったはずだ
  新世界を目指してアジアの希望を背負って立ち上がられた
  軍事的なものを日本がになったからといってそれを批難することはかなりナンセンスだ
  なぜなら、今日の日米関係と告示するからだ(もとより自衛隊があるが)
  
  多くの人が、日本人ヨーロッパ人を問わず抱く幻想がある
  
  「チャイナ・ドリーム」

  支那にて一旗揚げようとしてどれだけの人間が命を落とし、財産を略奪され、時には陵辱されてきたのだろうか?

  満洲国は、国際法・条約無視のソ連による過酷な侵略により潰えたが、今支那大陸に存在する社会主義自由経済なるシステムがソフトランディングできる可能性は残念ながら低い

  満州よりの引揚者と同じ憂き目を見る人間がどれだけ出るのか、それを考えるだけで気が萎えてしまうのは筆者だけであろうか?

MSN産経より以下を引用:


「建国」から80年(1)「黒い集団」の衝撃
2012.2.25 07:38

 ■「本当の友はいなかった」

 独立美術協会の「独立展」に12回入選の実績を持つ埼玉県行田市の面高春海(75)は、57歳で大手電機メーカーのサラリーマンから画家への転身をはかった。

 定年まであと3年となり、さて残りの人生をどう生きるかと考えたとき、終戦直後の「満州」で目にした風景をどうしても絵に残したいと思ったからだ。

 ◆脳裏に焼き付いた情景

 面高は昭和11年、満州国(現中国東北部)の大連で生まれた。父の満も名前が示す通り、満州生まれで、当時は満鉄調査部に勤めていた。南満州鉄道会社(満鉄)のシンクタンクである。

 小学校に入る前、祖父が経営していた製材所を父が引き継ぐため首都、新京(現中国吉林省長春)に移る。新京駅の北側にあった製材所の一角に自宅もあり、日本人中心の西広場小学校に通った。

 3年生で終戦を迎えたとき、製材所は中国人による略奪を受け、一家は比較的治安の良い市中心部の祖母の家に移る。家の前にテントを張って食堂を始めた。

 ところが数日後、春海は町の北の方から、「黒い集団」が近づいてくるのに気づいた。全身泥だらけでボロボロの服をまとい、胸に食器代わりの空き缶をぶら下げている。

 足にゲートルを巻いた男性がおり、日本人だとわかった。8月8日、日ソ中立条約を破って満州に攻め込んだソ連軍に追われ、命からがら北部満州から逃げてきた開拓団の人たちだった。

 「日本人が大変だ」という春海の知らせで、祖母らはありったけの材料で食料を作り、一人一人の空き缶に入れる。「黒い集団」は奇妙なほどに整然としていた。食べ物を奪い合うようなこともなかった。諦めのようなものが支配していたのかもしれない。

 だがこの衝撃は「戦争に負けるとはこんなに惨めなのか」と、面高の脳裏に強烈に焼きついた。その「黒い集団」を何とか絵にして残したいと思い、夜間の美術学校に通い始めた。今も同じテーマで描き続けている。

 終戦から1年近く、蒋介石の国民党軍と共産党の八路軍とが市街戦を繰り返す中、一家は身を潜めるように新京で暮らす。満州生まれでほぼネーティブな中国語を話す父も、このまま中国に残るつもりでいたらしい。

 ◆「トラウマ」背負い帰国

 しかし21年、満州の実権をほぼ握った国民党の方針で在満の日本人は皆、日本に帰ることになった。面高の一家も無蓋の列車に乗り、葫蘆島から引き揚げ船で佐世保に着いた。祖母の実家があった鹿児島市に落ち着く。

 面高は地元の小学校に転入し、一家は新しい生活に入った。だが父親だけは違った。ほとんど働く気を見せず、3年近くも家族から離れ、山の中に小屋を作り一人で暮らしていた。

 「敗戦によって、何十年も一緒に仕事をした仲間のはずの中国人に裏切られ、目の前で財産を略奪された。よほど悔しかったのでしょう」。面高はそう振り返る。父も子も「トラウマ」を背負って帰国したのだろう。

 だが一方で、父親は満州生まれであっても「中国人の友達はいない」と言っていたという。「あくまでも仕事上の主従関係だった。中国人と一緒にやるにはどこか無理があったのです」

 面高の言葉はそのまま、「五族協和」をかかげ、新しい国を目指した満州国の限界を示しているような気がする。父はその後、大学病院の施設などで働き、96歳の長寿を全うした。だが一度も満州を訪ねることはなく、語ることも少なかった。

 その満州国は、関東軍によって起こされた満州事変から半年後の昭和7(1932)年3月1日、建国が宣言された。今からちょうど80年前のことである。

 現在の日本の約3倍もの地に全く新しい国をつくるという壮大な試みだった。順調に経済発展をなしとげ、日本人だけでなく中国人や朝鮮人をもひきつけるフロンティアともなった。

 しかし昭和20年、日本の敗戦により13年余りの短い命を終えた。最大時150万人と言われた満州国の日本人は、あるいは命を失い、あるいは全財産をなくし、石もて追われるごとく日本に引き揚げた。

 一体この地に何を求め、どんな夢を見たのだろう。建国80年の今、彼らの子供の世代の目を通して見つめてみたい。=敬称略(皿木喜久)

                   ◇

【用語解説】五族協和

 満州国が建国に当たって掲げた理念。日・朝・漢・満・蒙の五族が助け合おうという考えだったが、日本主導のもと、ひとつの国に五族が住み分けていたというのが実態に近かった。