きっと、思っている以上に大事なこと | 心と身体をつなぐもの

心と身体をつなぐもの

身体が緩むと心も緩む
そんな感覚を大事に日々の気付きを書いています

前も少し書いたのだけど、

最近のこのウィルス騒動により、

改めて感じるのが

隣の人から、単なる咳やくしゃみでうつる、という

別々の身体と思っていたものが

目には見えないものでつながっている、という実感。

 

 

この世界全体が大きな網目のようにつながっていて

その大きな網目の中に、自分も組み込まれている、

ということ。

 

 

自分だけ絶対安全な場所に避難することなんてできない。

この世界で生きてる限り。

 

 

本当は、人の目に見えないものの方が多いのかも。

人の視力なんて、そう大したものでもない。

空気だって紫外線だって見えないし。

 

 

そして、自分もその大きな網目の一部なんだけど、

その網自体が、物質だけじゃなくて

個人個人の体験や、感じたこと、思いの集合体でもあって

それこそが、この世界の構成要素なんだなって思う。

 

不安が連鎖する

喜びも連鎖する

 

それによって経済が動く

社会や政治も動く

 

個人個人の、些細に思えるちょっとした感情の動きがその人の行動を変え

その行動が、更に他人へも影響を与えていく。

 

コロナビールが売れなくなったというのを聞いて、

そんな馬鹿な、と思ったけど、

きっと誰もが、関係ないことは分かってるけど、何となく今はそういう名前のビールを飲みたくない、

という感情があって、それが大きく売り上げに影響したんですよね。

 

 

 

 

 

で、まあ、今日は別に経済のことなどを言いたいわけではなくて。

 

個人個人の些細な感情も、体験も、思いも、

決して取るに足らない、どうでもいい、ということではない。

それこそが自分の構成要素であり、

さらに言えば、網目でつながってる世界の構成要素でもあるということ。

 

だから、それはもっと自覚的に、大事に扱う必要があるんじゃないか、ということ。

 

 

 

自分の思いは自分のものであるけれど、

それを自覚していないことも多いんじゃないかな。

何か思っても、いやそれは大したことじゃない、とか、

私が我慢すれば丸く収まるからと、感じないふりをする、とか。

 

自分の思いにちゃんと気付いて、受け入れるっていうのは

本当に大事なことだと思う。

 

自分が今、悲しいとか嬉しいとか、寂しいとか

その思いを人にぶつけるかどうかは全く別の問題として、

そういう思いを感じているのは本当のことで、

その思い自体がとても大切な、自分の構成要素なんだから、

気付かないふりをしてはいけない。

 

なんかわからないけどモヤモヤする、という時は

自分が無意識に気付かないふりをしているから、

意識的に深く追求するといい。

 

自分がなんでこんなに怒ってるのかわからない、という時

(芸能人のゴシップに感情的になる人とかね)

その陰に、自分の悲しみや寂しさがあるのかもしれない。

 

 

 

悲しいと感じている、

嬉しいと感じている、

とちゃんと気付いて受け止めて、そのうえで、

それを人に話すのか、行動に移すのか

切り離すこと。

 

 

過去のことでも、

ひとつひとつの体験を、その時々の思いを、

些細などうでもいいこと、過ぎたこと、と矮小化するのではなく、

すべての体験、感情、思いが、今の自分を形作っている宝物だ、と思う。

 

そう思うと、

つまらない、気がのらない、なんて思いながらやることが

どれだけもったいないことか、と今は思う。

 

 

 

 

自分から湧き上がってくるもの、

表出してくるものすべてを、

いちどきちんと見て、意識に上らせて、

出来るなら言語化して、はっきりさせる。

 

それが受け入れる、愛でる、癒す、ということかな。

そして不要なものであれば、それを流す。手放す。

成仏させる、といってもいい。

 

 

どんな経験も、ムダなことなんて何一つなかった。

ドラマチックでも何でもない、日々の暮らし。

淡々とした日常の中にある、揺らぎのようなもの。

 

それこそが、この世界を形作っているのだと思うのです。