嘘の誕生28.8.30

 明治43年8月29日の日本政府から朝鮮総督府への通達に以下がある。
「朝鮮人は虚言を弄する習癖があるので絶対に信用せぬこと。公に証言させる場合は必ず証拠を提示させること」

 優越者であることを主張する経緯で、平然と嘘が付かれる。但し日本人の感覚で「嘘」なのであって、鮮人様には「嘘」との認識はない。日常の駆け引きや平生の韜略の範疇に在る御様子である。

 実際、仕事の関係で朝鮮人様とお付き合いせねばならなくなって、日本人が先ず驚くのが、「いちいち嘘を付く」という彼ら彼女等の習癖である。何故、そんな事までと云った些末・不急の事柄にまで「まめに」嘘を付き捲る。
 不思議だし、理解できない。短期には気分良くなれても、長期には自ら墓穴を掘ることは避けられまい。その場凌ぎしか考えておられないのではないのか。たぶん長期をイマジネーションしてシュミレートする想像力が欠けている。長期の展望に立っていたら、だいいち嘘など付いていられない。刹那主義。その場が切り抜けされたら御の字なのだ。「勝った、勝った」の提灯行列。
 ひょっとして現実と嘘との区別が付かないのではないかとさえ思えてくる。目の前の鮮人の頭の中では、虚言が虚言を生んで実が片隅に追いやられ、虚が実となっているのではあるまいか。怒涛の如く押し寄せる嘘の洪水の中で茫然と佇みながら、私はそう思う。

 最も分り易い例が、在日様も本国人様も、誰もが自己の家柄が兩班だとか先祖は兩班の出だと自己紹介する習慣だ。流石に賤民とは口が裂けても自白しまいが、中人とか常民も聞いたことが無い。支配階級であった兩班は全人口の1割を切っていたかと推測されるが、現代韓国人と在日様は、まず9割方、否、9割9分は兩班の出自を誇るのではなかろうか。確かに日本でも出来損ないの商人未満の政治家が「腹を切って詫びろ!」だの 「武士に二言無かろうが!」だのと、柄にもなくサムライ気取りを演ずる。国家指導者を自称する者からして有権者を前に、心にも無い科白を高言して憚らないのであるから、人様の事は言えまいが。

 気付くべきは、嘘のベクトルが、自己をより財力があり、より権勢があると見せる方向に向かっていることだ。私の仮説ではあるが、朝鮮人様は、位階序列の優越者であることを立証する必要に常に迫られている為、それが強迫観念となって、嘘と言う安易な解決策に走ることが常態・恒常化したのではなかろうか。

 斯くして嘘が誕生し、民族の性となった。
 嘘を付き通すのは本来、膨大なエネルギーと優れた頭脳が必要となる。嘘は破綻が不可避なのだが、その破綻を回避し続けるためには先を見通す想像力と、周到な構想力が必要になる。余程ご自分の頭脳に自信が無い限り馬鹿正直が無難である。馬鹿正直である限り、
仮に短期には損失が発生しても長期には破綻を免れる。リスクコントロールに自信があって、破綻が恐怖でないのなら嘘も良かろう。
 しかし鮮人様にあってはご自分の器量を弁える様な謙虚さは端から無ひ、又ご自分の嘘が破綻していることを認める様な、そんな萎(シヲ)らしさや神妙さとは永久に無縁だ。嘘も百回言えば本当になるの金言を徹頭徹尾信仰して実践する。これはこれで天晴れと言うしかないと、私も疾うに諦念した。