国庫債券は踏み倒されるべし28.8.9
 国庫債券の始末も大問題だ。 
 苦魯堕先生は既に逃げの準備を完了しておられよう。最初から始末など付ける気もなくして買い込んでいるからだ。
 国庫債券はその名の通り、証券発行形式による日本国を債務者とする借入金証書のことである。
 債権者は名目上は市中銀行、生保、郵貯、中央銀行になる。しかし、実質的には国民になる。国民の預貯金、掛金、積立金を購入資金に充てているからだ。
 此処でも最終的に、即ち実体的に尻拭いするのは国民だ。国家、政府は元より自分で返す気など無い。第一、四六時中考えているのは「如何に無駄遣いするか」である。抑々(ソモソモ)、国家や政府には自分で稼ぐ能力など端(ハナ)から皆無だ。最初から借りっぱなしにするか、踏み倒すしか考えていない。実際にそれしか出来ない。
 身も蓋も無い話になるが、国家とは元々自らは生産することが出来ず、国民から収奪することでしか存立出来ない一種の禁治産者(被成年後見人でしたっけ?)の様な存在なのだ。
 国家が国民から借りて、踏み倒す。未来永劫、この姿しか有り得ない。
「俺様は金輪際、国債は買わない」などと力み返っても、蟷螂之斧と言うも愚か、無駄な事だ。国民の意思とは関係なしに、国民の預貯金、掛金、積立金で国債を、国家の強制力によって銀行を通して買わせられるからだ。銀行も買わなきゃ免許停止にさせられる。明日から御飯(マンマ)の喰上げ。国民は何処に逃げようと隠れようと無駄で無意味だ。国家から収奪される運命にあるのだ。
 それがどうしても厭なら、国民以外の被収奪者、即ち被植民者でも見つけて来て、替りに収奪されて貰うしかない。

 処で、日銀による国債購入には2つのルートがある。

甲(買取). 国家 ⇒ 市中銀行 ⇒ 日銀 
乙(引受). 国家 ⇒ 日銀 

 テキストなどでは甲(買取)と乙(引受)は、経済効果を異にし、全く別異の政策であるかの如き説明である。だが、本当だろうか。
 一般的には甲(買取)ルートで、国から市中銀行等が購入する。「等」だから個人が買える商品もある。テレビや全国紙で「国債を買いませう」などと戦時中を思わせるキャンペーンを展開しているのがそれだ。私も前職時代に相続の仕事で個人向け国債を拝む機会が結構あった。昔の人は本当に律儀に国債を買っていたのだ。幾つかタイプがあったやに記憶するが、確かにミシン目が入っていて半期だか4分の1期だかに切り取って換金するタイプもあった。それを見た時、何故か、駄菓子屋にある籤付きのシールを思い出した。
 
 恐らく当時も今も盛んに愛国心とやらを鼓吹したことであろう。愛国心の証明として国債を買えと煽ったことであろう。電通・博報堂の前身たる当時の国策宣伝機関が強迫的な宣伝文句を羅列した。それは国民に対して、広告会社・宣伝機関が「愛国心」を質として取ったとの宣告だった。現在の個人国債キャンペーンも「質」を返して欲しくば、国債を買えとの脅しなのだ。

 国とすれば最初から返す気など無い。端から紙切れと思っている。踏み倒すか、インフレで価値を吹き飛ばすことを暗黙の前提としていた筈だ。個人が年金代わりに償還金を当てにする、などと言う事は、買わせるときの宣伝文句としては良いが、本音では鬱(ウットオ)しいと思っていたことだろう。だから換金出来る期限やらが細かく設定してあった気がする。個人は買ったまま償還期日を忘れるか、死んで呉れるのが望ましかったに違いない。
 その点、銀行なら世話が無い。期限が来たら買替させればいい。永久の手形ジャンプだ。金利だけ払って、黙ってゐろ、と命令できる。文句垂らせば銀行免許剥奪だ。中央銀行も出入り禁止。

 日本国政府は事前で製造したり生産したりして金を稼ぐことは出来ない。資金が欲しくば、トコトン国民に寄生するしか選択の余地が無い。
 例えば消費税の様に闇討ちの様に法制化して税金としてを収奪するか、或いは借用書を債券と称して濫売して資金を上納させるしかない。考え様によっては憐れむべき立場にある。何となれば、日本国の財務上の最大の弱点として、通貨発行権を中央銀行に簒奪されたままであることが挙げられるからだ。教科書には国家は紙幣は駄目だがコインは発行できると言ったことが書いてあるが、これも大嘘だ。国は十円玉一個も自分では発行できない。国家は国民に対する集(タカ)り強請(ユス)り騙しの技術を磨かざるを得ないのである。