インフレで紙幣を紙屑にしろ 28.8.7
 傍で見ていると要するに何が為さりたいのかチートモ理解出来ないのが日本の中央銀行総裁であり唖屁政権だという事である。普通、人間の遣る事には何らかの人的整合性、人格的統合性があるものではないのか。頭が悪いなら悪い成りの方向の一貫性があってよさそうである。
 処が、遣る事成す事、ハチャメチャで支離滅裂。言う事と遣る事が倒錯混乱。出鱈目、大嘘。傍で見ていても何を為さりたいのか分らない。
 多分、ご自分達でも、何を遣らされているのか理解されていないのではないのか。何をすべきかなどと聞かれたら、パーブリンだ。唯々お題目を唱えるのみ。「デフレ脱却」「デフレ脱却」

 経済用語どころか、もっと根本的な日本語そのものが理解されていないのではないのか。基本的な用語の混乱、概念の誤用が顕著だ。
 初っ端から明らかに混同していたのが、「デフレ=経済縮小=悪」「インフレ=経済拡大=善」という発想だ。出来の悪いデマゴーグではないのか。さもなくばプロパガンダの実験場だ。

 「デフレ=持続的物価下落」「インフレ=持続的物価上昇」
 定義として正しいのはこれだけだ。
 経済拡大はデフレ・インフレとは全く別な概念だ。現にデフレ期に経済は堅実に拡張している。過去のデーターからも1%~3%といったペースで極めて堅調な成長を示す。
 怖いのは何時の世もインフレだ。インフレは、その原理的宿命として『恐慌』やら『株価暴落』を内在する。『恐慌』『株価暴落』こそがインフレのゴールだと断言しよう。インフレは『恐慌』を志向せずにはおれない。何故なら、『恐慌』がカタストロフィーとして用意されことでインフレにエンジンが掛り爆走が可能となるからだ。インフレはゴールたるカタストロフィーに向かって突進する。従って経済拡張もあれば、経済縮小もある。

 私の様に戦中・戦後の長きインフレ期を息も絶え絶えで生き延びて来た者には、インフレと言われて体験的にイメージするのは以下だ。
「インフレ=モノ不足=供給不足=紙幣暴落=飢餓=モノの値段高騰=高金利」
 兎に角、インフレにはロクな想ひ出しかない。
 紙幣が紙切れと化し、米やイモの値段が暴騰する光景だ。眠っている間も、手持ちの通貨は、一秒一秒価値を減じて行く。じっとすることが許されない世界なのである。インフレは人を追い立て、片時も休ませない。
 
 それに比してデフレ期では、洗濯機でも掃除機でも電卓でもメーカーは競って価格を下げる。タンス預金はそれだけで価値が上がる。手持ち現金が目減りする恐怖に怯えなくてよい。その上、借入利息も恐ろしく低い。
 寧ろ牧歌的な、ほのぼの、ホンワカした光景が広がる。銀行も保険会社も生保も、だれも熱心に自分達の商品を勧めない。金融の営業も来なくて、静かで穏やかで魂の安らぎを覚える。デフレには悪いイメージは全くと言っていいほど無い。
 何故、銀行がデフレを嫌うかと云うと、一切のインフレマジックが使えなくなるからだ。銀行の預金に於けるビジネスモデルは以下に尽きる。
「今、インフレ年率5%です。お手元の100万円は一年後には95万円に成ります。当行にお預けに成れば2%の御利息が付きます。被害は3%で済みます」
 その3%をちゃっかり儲けるのは銀行だが、デフレではこのマジック一切使えない。彼らはインフレ下でしか生きられない先天的嫌デフレ生物だ。

 金融の走狗たる銀行・生保・保険が休眠し冬眠に入った時こそは、実は実体経済が真に創造的で革新的な活動期に入る時なのである。
 金融と実体経済とは車の両輪だと学校では教わる。しかし本当だろうか。虚業と実体経済が何れも栄えたら素晴らしいに違いない。だが、体験から云うと「否」だ。虚業は実体経済の生命力を宛らドラキュラの如くに吸い上げることで、栄えているのではないだろうか。