造物主の『発見』28.8.6  
  では、お前を評価できるのは誰なのだとの議論になろう。   
 お前は、誰の評価なら、一体全体受け入れる心算なのだ。との話である。

   答えは簡単だ。造物主しかおるまい。
   人は、他人からの自己への評価を受け入れても良いし、受け入れなくても良い。但し、唯一受け入れねばならぬのが造物主による評価だ。
 尤(モット)も相手は造物主だ。この自身を、自己を、御作り遊ばした御本人だ。作成者御本人であれば、評価もクソも無い事には成ろう。
 造物主は、かくあれと定めて、その人を作られた。
 人は造物主に作られた通りに生まれ、作られたとおりに生きねばならない。生きている間は、被造物者が造物主の意思を一歩たりとも食み出すことはできない。造物主の意思に反して生存することは、土台、不可能なのだ。
  胴が長いのも、近眼なのも、老け顔なのも、全ては造物主が意図されたことだ。
 私が老けているのが気に喰わないからと言って、批判者達には、造物主に製造物責任を問うだけの度胸はあるまい。
  してみれば、被造物同士が、互いを批評し合うことなど、笑止の沙汰でしかないことに気付こう。老けているの、胴が長いのだの、何を偉そうに被造物同士が講釈を垂れるのかと云う話になる。造物主でもない者が何を御託宣を垂れているのだ、となる。

  おそらく極(ゴク)幼少時に、私は神を「見つけた」。
 阿保は阿呆なりに、神が居た方が、何かと好都合であることに気が付いた。逆に居ないと世界観の説明が付かなくなる。不便極まりない。
  神は確かに実在する。確信を持って断言できる。
 もし、居ないとすると世界が今在ることの説明が付かなくなる。少なくとも私にとっては居て貰わないと困るのだ。

 人は造物主の言葉のみに徹底して耳を澄ませば足りる。他人からの、批評や批判は、聞いても良し、聞かなくとも良し。受け入れても良し、受け入れなくても良し。畢竟、他人からの批評や批判はどうでも良いのである。  
  人は造物主に作られた儘に考え行動するだけで手いっぱいの筈だ。
  造物主の意思を実現・実行するだけで人生は大忙しの筈である。
  自己に対する他人の批評や批判をいちいち検討している時間など無いのだ。