8/30 余剰価値説で消費税を蹴散らせ
 マルクス大先生様は、剰余価値の発生を「労働」に於いてしか認めなかった。
 流通過程での剰余価値の発生を認めなかった。
 マルクス大先生様によれば、剰余価値は商品交換(流通過程)によっては生まれない、のだそうな。
 商品交換の典型は売買になるが、即ち、売買では利潤は発生しない、とのご高説である。物理的な交換としかお考えにならない。
すると余剰価値説に立てば売買で利潤を得ることも誤りとなろう。
その利潤に課税する消費税なるものに至っては「以ての外」となろう。論外、外道の極み。
 消費税なるものは架空の価値に対する税、虚構の税となる。マルクス大先生様がもし御存命であれば、消費税を発案した税務官僚や財務官僚共は、世を惑わす不届き者として、マルクス主義の名に於いて、即刻ギロチンに架けよとお命じになるに違いない。
 商品交換(流通過程)で剰余価値が生じないとすれば、問屋も卸しも小売も剰余価値が生じないことになる。配達も剰余価値が生じないことになろう。宅配業者は真っ青になる。
 余剰価値説を現代人に説くには無理が在る。
 デマゴーグやアジテーションに留めておくに如(シ) くはない。
 仮に実体価値の意味と理解したとしても、マルクス大先生様のご高説は、現代人にとってやはり無理が在ろう。工場の倉庫で眠るスマホと、今手元にあるスマホ、仮に同じ銘柄であっても、価値は違うと現代人は考えるのではないのか。倉庫のスマホはガラクタだが、手元のスマホは宝だ、と。
 現代社会では生産による価値が実で、流通による価値が虚だと考える人はおるまい。どちらが上だとかも考えまい。市場で需要があって、現に対価が支払われるなら、価値は実在すると考えるのではなかろうか。その対価こそ価値の実在に他ならない、と。
 問屋も卸も小売も、強力な需要が存在している。それが無いと市場は正常に機能しないと市場は判断する。問屋や卸や小売の市場機能に対し、市場では適正に対価が支払われる。
 対価とは価値の認識である。価値を認識することで価値は実在する。ロシアにあって、ロシア人は国内の流通が特段に不便とは認識してはおるまい。頗る不便で生活や事業に支障有り。流通が成ってないと認識するのは日本人なのだ。
 マルクス大先生様はゴイムが価値を認識し、価値に対価を支払うことを認めてはおられまい。斯かる自律的な経済行為はゴイムの分際を越えることであり、許されないとお考えだった筈だ。
 ゴイムは、マルクス大先生様から言われた通り、資本家に搾取された剰余労働(不払労働) を資本家から取戻すことに専念せよ。
剰余労働(不払労働) はゴイムの所有に帰すべきものだ。それは一時的に資本家に預けているに過ぎず、労働者は何時でも取り戻して良い。決して掠奪ではなく、寄託物の返還に過ぎない。大丈夫、タルムードに書いてある。

 それにしても「搾取」という訳語は秀逸だ。この翻訳一つでマルクス主義が日本に根付いたと言っても良い程だ。「搾取」と言う言葉を掲げるだけで資本家は沈黙する。労働者はルサンチマンに駆られる。総てを正当化する錦の御旗となり、労働者は大威張りで徒党を組んで暴れることが可能となる。翻訳者は日本に於けるマルクス主義普及の最大の功労者だ。