11/22 円高に孤り祝杯
 平成23年3月17日、この日、K君は祝杯を揚げずにおれなかった。ニューヨーク外国為替市場で、円相場が一時1ドル=76円25銭を付けたのである。過去最高値だ。是れが祝わずにおれようか。長く1ドル=360円だった時代を振り返ると、正に昔日の感が在る。
 昭和46年8月15日の所謂ニクソンショックでドル紙幣と金の兌換が停止されたのがエポックだった。既にドルの下落が始まっており、それまでの金・ドルの交換比率で金を支払った日には、アメリカが大損をコイテしまうので、固定した交換比率は止めました、と全世界に向かってアメリカは一方的に宣言したのである。これにより固定相場制は終焉。併せて各国間の通貨交換の枠組みを定めたブレトン・ウッズ体制が解体。暫くして世界は変動相場制に移行する。世界各国の通貨はその時々の相場で交換されることになって今に至る。新たな為替相場市場が誕生したのである。
 日本は今自らの翼を以て自由取引市場で力強く羽ばいている。固定相場制の初期の頃は今にも折れそうだった華奢な骨格、辛うじて蓄えた筋肉が、今や雄々しくも隆々たる翼に変じている。固定相場制の軛を解き放たれたことが幸いしたのである。自らの翼で自由に飛ぶことで、高度に耐える強靱な肺と、俊敏で旺盛な飛翔力を獲得したのであった。
 K君は定時で仕事を終えると、その足で馴染みの酒屋に寄って、月の限られた小遣いから捻り出して大吟醸酒の4合壜を購入した。本醸造酒しか買ったことのないK君であったが、何と奮発して2ランク上げて大吟醸酒をご購入あそばしたのである。いつも買う本醸造酒が一升瓶で3本買える値段であった。レジスターを操る酒屋の働き者の内儀は、代金を受け取ると意味ありげな視線を一瞥K君に投げてから、何時もとは違う銘柄の酒壜を黙ってさり気なくK君に渡した。
 K君は古い木造の借家に帰って一息つくと、せめてもの心尽くしで硝子コップを布巾でぎこちなく磨いた。それから徐に吟醸酒の栓を開けた。壜を傾けて静かに硝子コップに酒を注いだ。手が少し強張って、注ぐのに一寸手間取った。
 唇に充てた硝子コップを煽ると、液体は一瞬に口中に流れた。口に含むと淡く溶けるように喉に消えた。ワインのような果実の芳香が微かに舌先に漂った気がした。流石に大吟醸、平生の安酒とは違って洗練されている。緩やかな酩酊が訪れ、涙が自然に浮かんで何者かに感謝せずにおれなかった。
 思わず「天皇陛下万歳」をK君は唱えた。安普請の借家の中に、たった独りの万歳三唱が谺した。
 円は勝利しつつあった。何に対しか? ドルに対してである。
 円通貨は今や世界で最高の信任を得て、市場から最大評価を得たのである。K君はドルに対する円の勝利を確信した。