7/25 過払金業務に党派的正義はない  
 そこで些か唐突で、事例としては下世話過ぎて適当とは言い兼(かね)るのであるが、弁護士先生の過払金事件も戦後植民地教育の精華たる偽善の一例と申し上げたいのである。
 高利貸しの上前を撥ねておきながら、その高利故に高利貸しを批判するとしたら、それは我々大衆の素朴な通念に照らしたら偽善であり矛盾である。私はこの庶民感情をこそ尊しと思うのだ。
 高利貸しから撥ねた上前から自らのお足を得たのなら、最早、高利貸しの立派な共犯者である。斯く感ずることこそノーマルであろう。
 高利による金員を等しく貪る者として、既に高利貸しを卑しむ資格はない。目くそ鼻くそを笑ふの類。正に同じ穴の狢としか見えない。それも高利を嗅ぎつけることに異様に長けた狸である。 
 むしろ人としての真っ当な情感に従えば、録(ろく)の出所(でどころ)たる高利貸し様に足を向けて寝られないところだ。判示では顧客の錯誤に基づくサラ金の不当利得だとされても、その論理の倒錯を素直に受け入れるのは難しい。むしろ「何じゃ、こりゃ」と受け取る感性にせめてもの救いと健康を見るのである。それが正常且つ健全な「人情」の働きというものではないのか。太古からの民族の「情」の余燼を宿す者としての真情である。
 ここで我々一般庶民は、弁護士先生特有の職務倫理とやらにぶつかる。弁護士の弁護士たる所以の処として、弁護士の存在理由、弁護士先生のレーゾンデートルとして誇り高く掲げる旗印だ。党派的正義(若しくは党派的役割)と云う奴である。
 大いなる違和感を抱かざるを得ないのである。何時(いつ)も乍(ながら)耐え難い異物感を覚えるのである。しかし、この党派的役割こそ、弁護士の弁護士たる存在根拠に相違ない。むしろ、この党派的役割に生き甲斐を感じてこそ、弁護士の適性が肯(うべな)われよう。仮令世間全部を敵に回しても、顧客のため党派的役割に徹して顧客に殉じてこそ、弁護士の鑑と言うべきだろう。
 しかし、こと過払金業務に関しては、党派的役割の原理が働く余地は無いと思う。過払金業務に関して党派的役割とか弁護士倫理を説こうとするのは明らかに偽善だ。
 党派性の話でなく、普遍的な職業倫理としてなら、依頼人のために死ぬまで戦おうとする心情自体は良く分かるのである。ムエタイの選手が自分に賭けて呉れた観客の為に死ぬまで戦おうとする気持ちは痛いほど分かる。実は私も顧客の為に戦って、死ぬのが分かっていても戦って、それで底無し沼に堕ちた一人だから。たかだか賭の対象の、駒一つでしかないのに、何故そこまで命を張るかと問われても答えられない。人生意気に感ず功名誰か論ぜん、だけでは済まない。もっと深い他者との係わりに伴う実存的要請がそこには存在している。その時、死はゴールになる。死ぬと分かっていても人は死に向かって突き進む。死は甘美なる解放であり、蠱惑の終末である。
 なぜ過払金業務は党派的役割原理から無縁かといえば、まず労務と不均衡な多額の報酬が上げられる。過払金の2割3割を報酬とする現実に照らせば、我々庶民感覚では「高利貸し顔負け」としか言葉が出ない。どう贔屓目に見ても、凡そ高利を非難する資格を欠いている。いかに多重債務者の味方ですと叫ぼうと、我々大衆の耳には虚しく響く。いかに貧困者の救済のためですと力説しようと、我々庶民の目には都合の良い屁理屈膏薬による正体隠しとしか映らない。世直しだ、救済だと声高に叫ぶ程に、空疎であり白々しくシラケてしまう。
 次に安易な反復性が横行する現状がある。ワンパターンで安易に稼げ、しかも同じことの繰り返しで同じだけ稼げてしまうのである。額に汗して労苦を重ねた上で何とか稼ぎを上げている一般大衆とすれば、心情的にも許し難いであろう。弁護士と云う保障された職務権限がこれを可能にしている。職務権限の用い方としても妥当性を欠く。事務員のルーティンで安易に稼げてしまう現状は、如何なる正当化の試みも拒否している。