4/28 日米200年戦争
 日華事変、日中戦争の実体は、「米」対「日」、乃至「米・独・ソ・中」対「日」である。日本が戦っていた相手は見掛けは中国、実体はアメリカなのである。
 嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、アメリカの国家戦略の目的は、中国大陸進出による中国大陸支配、中国大陸マーケットの支配にある。その為の太平洋の海洋覇権の確立なのだ。確かに来航前は薪炭・水の補給地、一時的停泊地の確保程度の認識だった時期もあった。勿論原住民が鼻垂らしたアホ揃いだったら屠殺して植民地とするも大いに可であったろう。しかし事前の欧州からの情報で日本が奥の深い高度でオリジナルな文明国であることを知る。政治・経済・歴史・宗教・風俗・産業・軍事等に渡り精確な情報を得ており、朝廷と幕府の聖俗2元統治構造や、中央集権国家でなく幕府と諸藩の連合体政権であることなども理解されていた。昨今のテレビにシャシャリ出ては、シタリ顔で国際情勢に注釈を垂れるコメンテーター様などより、遥かに日本の歴史への造詣が深く、文化に対する見識が高い。
 150年前に日本はアメリカ支配者の前で丸裸にされていた。ジャポン、断じて侮るべからず。心して周到に抜かり無く侵略すべし。
 既にこの時点でアメリカの支配者たちは地勢学上の必然として百年以内に日米決戦不可避の見立てだった。事実、100年後の昭和16年(1941年)に真珠湾攻撃を誘導された。地勢学上どちらかが100%手を引かない限り、日米は中国大陸を巡って遅かれ早かれ雌雄を決せざるを得なかったのだ。アメリカの仕掛けと罠は完璧だ。どの道、日米戦争から逃れる術は日本には無い。日米戦争の導火線はペリー来航と同時に火が放たれていたのだ。
 誤解してはならない。日米開戦は昭和16年12月8日ではなく、嘉永6年6月3日なのである。真珠湾攻撃は戦争過程の単なる戦闘行為・作戦行為の一つに過ぎない。日米戦争は100年戦争、否、戦後の経済戦争を含めれば、優に200年戦争と呼ぶべきものなのである。
「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
 この通りなのである。誰もあらたまって唐突に一からの「戦争」が始まったなどとは思っていない。散々アメリカの謀略戦・神経戦・挑発戦・宣伝戦・外交戦・輸出輸入戦・移民戦で振り回されたが、やっとのこと事実行為としての「戦闘状態に入れり」となりましたわ、やれやれのニュアンスだ。
 皮肉と諧謔の王様小林秀雄によれば「戦闘状態に入れり」は、「日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。」の解釈である。
 若き日の福田恆存は「大手柄だ、これでうまくいくぞと思った」の感慨を残した。これは戦争開始に抱く感情ではない、既に戦争が継続していて、その途中の戦局の好転時に抱く心情である。とうの昔に戦争の渦中なのだ。国民の多くが共感したからこそ、今に残る言葉である。
 小林秀雄は続ける。
「・・清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。」
 反骨と毒舌の塊の様な小林秀雄ですら、斯くの如しである。国民は例外なしに「晴々した思い」を抱き、心身ともに清々しさを覚えたという。
 当たり前だ、中国の陰で糸を引く黒幕のアメリカと、ようやく面と向かって表舞台に立てたのだから。ネチネチと陰湿極まりなく策謀を展開して来たアメリカと、やっとこさ土俵の上で、少なくとも形式的には対等に体面することが叶ったのだ。今までの暗闘から晴れて「戦闘状態入れり」だ。謀略戦・神経戦・挑発戦・宣伝戦・妨害・駆引きのストレスと苛々から解放されたのだ。これが祝わずにおれようか。