3/19 金融緩和は節度無用か
 やはり昔の人は節度という品性を自ずと備えている。規(のり)を越えず。分を慎む。及ばざるは過ぎたるより勝れりと神君家康公も家訓に留めた。但し私が云うと「お前に言われたくないよ」と反論されそうだが。
 翻って現代の荻原重秀モドキは、節度のセの字もなし。かかる自己抑制は薬にしたくも無し。数日前も「追加緩和に限界無し」とか世界中に向かって放言している。ご当人、大見得切って大向こう(外国)受けを狙っているらしいが、日本経済の自殺行為だ。放言の自覚すら無く、哀れを催す。南無三。
 「追加緩和に限界無し」は言えるとしたらアメリカだけが言える科白だ。科白を取り違えている。そもそもミスキャスト。だいたい中央銀行総裁がスター気取りでマスコミにヒョコヒョコとレギュラー出演すること自体が、モノ凄い勘違いに基づいている事実を証明している。
 中央銀行総裁がスターを演じて意味があるのはアメリカだけだ。なぜならアメリカの総裁だけが公然と嘘を付き、世界中をミスリードすることが許されているからだ。基軸通貨たるドル札の発行権限を持つのはアメリカだけだ。アメリカだけがドルの供給量を決められる。山一つ分の木材を紙幣にするのか、山2つ分の木材を輪転機に送るのか、アメリカだけが決められる。そしてその量とは、即ちその時々でアメリカにとって最も利益を齎す効用限界点・効用最頂点だ。
 つまり換言すればアメリカだけが自国の利益を至上としながら「世界経済の安定のため」とか「世界交易の拡大のため」とかの詐術・詐騙を展開できる立場にあるのだ。アメリカ中央銀行総裁にしか世紀のペテン師役、超国際的大詐欺師役は、配役されよう筈が無いではないか。ここに於いてアメリカにとって節度とは、いかに紳士的にペテン師役を演ずるか、如何に品よく大詐欺師ぶりを通すかを意味している。
 基軸通貨でも無い円の印刷屋たる日銀総裁が、アメリカの中央銀行総裁の模倣を演じて得意然とし、日本経済の舵取りをしていると悦に入るのは〇〇以下の振る舞いたること論を待たなひ。
 此れまでの日本の伝統だと、偉い人ほどその権限行使の場面では節度を弁える筈だという常識・通念があって、無意識の安心感があった。校長は素行不良の生徒を退学させる権限があるが、まさか退学させはしまい、社長は3無い社員を馘首出来るが、まさか馘首にはしまい、行政は土地収用が出来るが、まさか道路を通すのに農家の家屋敷を収用しやしまい、中央銀行はいくらでも円札を刷れるし国債も買取出来るが、まさか無制限にやりはしまい。偉い人ほど「まさか」から遠ざかり、自ずから自重し節度を保つ存在と信じられていた。
 お陰で私も半分引籠りだったが学校を卒業させて貰えたし、劣等社員だったが丁度10年会社に置いて貰えた。反面、平成2年に県の都市計画図で計画道路で登載されていたので通勤に至便と思い、疑いもしないで現在の住いに移り住んだが、未だに農家が1軒引っ掛かっていて直線で開通していない。
 処が、この黒〇大先生は、伝統的常識・通念を見事に粉砕・蹂躙して下すった。
 この人を見ていると、更めて節度とは、掛替えの無い日本の伝統的規範、世代に渡り身に付けるべき人としての品格であったと知れるのである。